朝倉氏は但馬国朝倉庄出身の武土です。南北朝時代に越前に入国し、越前朝倉氏の歴史が始まりました。応仁の乱を契機として、越前国を治める戦国大名となり、以後、5代100余年の治政を保ちました。

初代孝景は家訓の中で、一乗谷に重臣を集住させることや、能力による登用、国内の人材を育成することの大切さを説いています。歴代当主はこの方針を受け継ぎ、越前の発展と安定に注力しました。

5代義景は、のちの15代室町将軍足利義昭を一乗谷の安養寺に迎え入れ、朝倉館で盛大にもてなしますが、義昭を奉じて上洛することはしませんでした。

天正元年 (1573) 、織田信長との戦いに敗れ、 朝倉氏は滅亡し、城下町も灰儘に帰しました。

朝倉氏の出自

history_kamon.jpg

 朝倉氏は但馬国朝倉庄を名字の地とする武士です。南北朝時代に越前守護斯波氏(しばし)に従って但馬から越前に入りました。但馬国は現在の兵庫県北部、越前国は福井県の東部に相当します。

 鎌倉時代の初期、朝倉氏と朝倉庄の西隣の八木庄を名字とする八木氏は、鎌倉幕府の御家人に列し、但馬国に大きな勢力を持ちました。この両氏は同族で、但馬の名族日下部氏(くさかべし)の一族です。八木氏は鎌倉時代を通じて八木庄の地頭として発展しましたが、朝倉庄は後に鎌倉幕府中枢の御家人長井氏が地頭となり、朝倉氏はそれに従属していたようです。

 越前朝倉氏は、但馬の朝倉谷に生まれ、初めて越前へ入国した朝倉広景を祖とし、以後朝倉義景まで11代にわたって続いた大名家です。日下部を姓とし、氏神として赤淵大明神を崇敬し、三つ盛り木瓜(もっこう)を家紋としました。

越前入国

 越前国は北陸道の大国です。京都から比較的近く、豊かな国でした。越前と若狭は京都から北陸地方、奥羽地方、また山陰地方に至る交通路のかなめとして重要な位置を占めました。

 斯波氏は室町幕府を樹立した足利尊氏一門の有力な一族で、陸奥国斯波郡を名字の地とします。室町幕府で細川氏、畠山氏と並ぶ三管領の家柄になりました。建武元年(1334)斯波高経は越前の守護に任じられ、これに従って朝倉広景が延元2年(1337)に但馬から越前に入国しました。建武新政が瓦解すると、後醍醐天皇は越前に新田義貞を下し、その後吉野にのがれて南北朝の動乱となりました。その過程で朝倉氏は斯波氏の重臣として活躍し、越前の北部に勢力を広げていったのです。

朝倉高景・氏景父子

 南北朝時代越前では広景の子の高景と、孫の氏景が幕府方について戦って功績をあげ、高景は宇坂庄(うさかのしょう)を始めとする越前の7か所の地頭職を獲得しました。この宇坂庄内に朝倉氏の根拠地となる一乗谷が所在します。氏景は父高景に従って東寺南大門や越前の白土城(鎗噛山城)の戦いで戦功をあげ、畠山義深の摂津中島入部に合力して吹田で先陣を務め、また京中で新田兄弟を討ち取るなどの高名をあげました。氏景は平生熊野三山を信仰し、一乗谷に熊野社を勧請して社殿を建立しました。この氏景とその子の世代から、阿波賀(あばか)、東郷、中島などの庶家が分流し、また氏景の室天心清祐は南陽寺を創建して後にその子女とみられる人物が安原庄の代官職を務めているなどのことから、氏景時代の末期には、朝倉氏は一乗谷から東郷にかけての福井平野の東南端部に勢力基盤を置いていたことが類推されます。朝倉氏景は応永11年(1404)に没しました。

貞景・教景・家景3代

 15世紀前半期に相当するこの3代の当主の事蹟についてあまり詳しいことは知られませんが、主家の斯波氏は管領家として幕府政治に重きをなし、朝倉氏は守護代甲斐氏や織田(おた)氏とともに斯波氏の3家老として仕えました。幕府の関東出兵にも参加し、朝倉教景の弟頼景は結城合戦で甲斐氏と共に在陣して戦功をあげました。斯波氏はこの時期、越前のほかに尾張と遠江の守護職を獲得して以後この3国の守護職を長く伝えました。織田氏は越前の織田庄を名字とする一族ですが、このころ尾張の守護代に登用されて尾張に進出しました。甲斐氏は越前と遠江の守護代を務め、在国守護代両人を置いて在地を支配しました。

初代孝景の台頭

 朝倉孝景は越前一国を治めた戦国大名へと朝倉氏を飛躍させた人物です。以後、朝倉氏は2代氏景、3代貞景、4代孝景(初代と同名です)、5代義景まで5代約百年にわたってこの地域と幕府に重要な地位を占める大名家として続きました。

 初代孝景の父祖教景・家景の時代、守護家の斯波氏は当主が若くして没し、またあとつぎが絶えて一族の大野氏から養子となった斯波義敏が家老の甲斐常治と対立して混迷しました。越前の在地では、斯波氏被官や有力国人の堀江氏、そして朝倉氏の庶家などは斯波義敏を支持して自立し、甲斐氏によって動かされていた守護支配機構に抵抗しました。このため甲斐氏と朝倉孝景は京都で斯波義敏の家臣や国人らを排除し、また越前国内でも守護方と守護代の甲斐方とに分かれて激しい内戦になりました。

 長禄3年(1459)朝倉孝景は幕府の命により甲斐氏と共に越前に入部し、関東出兵を拒否した斯波義敏を追い落としました。その後孝景と甲斐氏は越前の軍勢を率いて鎌倉に向けて出兵して1年近く在陣し、足利義政の弟の伊豆の堀越公方足利政知を援けました。そして政知を補佐した渋川義鏡の子義廉(よしかど)が斯波氏の当主に起用され、朝倉孝景と甲斐敏光がこれに従うことになりました。しかし、斯波義敏はまきかえしを図り、足利義政から赦免され、京都に戻りました。文正元年(1466)斯波義敏はついに越前・尾張・遠江3国守護職に復帰しましたが、たちまち失脚して越前へ逃げ下りました。

応仁の乱と孝景・氏景父子

 斯波氏の家督が分裂するとともに、畠山氏では山名宗全の支持を受けた畠山義就が復帰して管領畠山政長を実力で排除し、これをきっかけとして、京中で細川勝元の東軍と山名宗全を盟主とする西軍が対決する応仁の乱が勃発しました。朝倉孝景は管領となった斯波義廉の忠実な部将としてたびたびの攻防戦で活躍し、西軍主力の一員として京都で軍功をあげました。しかし越前の在地では斯波義敏が勢力を伸ばしており、また東軍方からの働きかけもあって応仁2年(1468)孝景は嫡子の氏景を京都に残して越前に下国したのです。

 孝景は坂北郡の深町氏などの有力国人や大寺社を味方に誘い、幕府との交渉を重ねて、文明3年(1471)5月越前の守護職について孝景の望みに任せるという文面の足利義政の御内書を獲得して東軍方として挙兵しました。氏景も山名宗全の陣営から東軍へ転身し、足利義政に見参して越前へ下りました。

越前の平定

 越前の在地で朝倉氏に敵対したのは、西軍方の甲斐氏と本領の大野郡に滞在した斯波義敏です。孝景・氏景父子は毎年のように甲斐氏と合戦して、そのつど甲斐氏を国外に追い出して越前支配を進めました。文明4年(1472)秋には府中と敦賀郡を制圧し、幕府から寺社本所領の半済を許可されました。その後、甲斐氏は主として加賀方面から越前に侵攻し、賀越国境の城や金津をめぐって激しい攻防戦がくりひろげられました。文明6年(1474)朝倉氏は杣山城(そまやまじょう)にたてこもった甲斐勢を掃討し、また殿下・桶田口から岡保・波着山まで深く侵攻した甲斐氏や千福氏を討ち取り、美濃守護代家の斎藤妙純の仲介により、甲斐氏との和睦がなされました。翌文明7年(1475)甲斐氏が守護代として遠江に下向すると、朝倉氏は最後まで残っていた大野郡の犬山城と土橋城の攻略を開始し、ついに井野部・中野の合戦で二宮氏を討ち捕り、斯波義敏を京都に送り返して越前一国の平定がなしとげられました。

孝景の死没とその家訓

 その後、越前ではいったん平穏な日々が来ました。しかし文明11年(1479)冬に守護家の当主斯波義良が自ら甲斐氏を率いて豊原寺に侵攻し、二宮氏も平泉寺に入りました。その後3年にわたり合戦がくりかえされましたが、その現場指揮は専ら嫡子の氏景が務め、弟の慈視院光玖は大野郡を固め、朝倉氏一族が団結して斯波氏と対決しました。孝景は第一線を退き、文明13年(1481) 7月病気により亡くなりました。

 朝倉孝景は晩年子の氏景と孫の貞景に17か条の家訓を残しました。朝倉氏の重臣の登用や、質素倹約、近臣の登用、そして目付の配置や合戦の教訓、築城の禁止、国内巡行や訴訟などの内政面などの事項を簡潔な文章で短く印象的につづったものです。また他国との縁組や出兵については十分に思慮をめぐらさなくてはならないという教訓もなされたといいます。この家訓は戦国大名のものの考え方を具体的にまとめたものとして有名です。

2代氏景の家督継承

 孝景が没すると嫡子の氏景が継ぎ、忌みがあけると館の座敷で代替の儀式が執り行われました。そして氏景は幕府に太刀・馬・銭・絵などの御礼の品々を進上し、返礼の御内書と剣を賜り正式に家督継承が認められたのです。その後、氏景は国内の大寺社の所領を安堵し、また家来に知行を宛行って新しい当主になったことを国中に示しました。その安堵状の形式は大寺社に対するものは上位の意思を受けて出す奉書形式で、斯波義廉の子を守護として奉じたこととあわせて、朝倉氏が越前の守護代としての格式を備えていたことがうかがえます。その後文明15年(1483)甲斐氏との和議が成立し、幕府は朝倉氏を越前の守護代、遠江守護代を甲斐敏光、尾張守護代を織田敏定と定め、斯波氏重臣の3氏の住み分けを確定しました。氏景は越前の経済力を背景として、幕府に対する出銭を怠らず、幕府から高く評価されました。しかし孝景が没したわずか5年後の文明18年(1486)に38歳で没しました。

3代貞景時代の前半期

 3代貞景は文明18年(1486)14歳で朝倉氏の家督を継ぎ、大叔父の経景、慈視院光玖、景冬らに支えられてその地位は最初から確立していました。幕府での朝倉氏の立場は斯波氏の訴訟により不安定でしたが、交渉の結果、将軍の直臣として認められました。

 一方、貞景は近隣の実力者である美濃斎藤氏と縁組し、以後長く越前国と美濃国は政治的な関係を保ち、また越前・美濃・近江・尾張・若狭というこの地域の政治的なまとまりが形成されていきます。

 管領細川政元の策謀により将軍足利義材(よしき)が失脚した明応の政変の後、越中に下向した義材を貞景は支持しました。また美濃斎藤氏の内紛では舅の斎藤妙純に助力しましたが、近江に進攻した妙純は討死してしまい、以後貞景は積極的な国外出兵を止めました。義材(後に改名して義尹、義稙)の上洛についても、その途次一乗谷に入れて歓待するにとどまり、自ら軍事支援を行なったわけではありません。

 貞景の大叔父の世代の指導者たちが没すると、敦賀郡司景冬の息子の景豊は初代孝景の四男元景(景総)と組んで、当主の貞景に謀叛を起こしました。文亀3年(1503)貞景は初代朝倉孝景の末子教景(宗滴)を抜擢して敦賀に出兵し、景豊を滅ぼしました。貞景にとって朝倉氏の越前支配体制の確立が最大課題であり、それはこの叛乱を鎮圧することによってなされたのです。

一向一揆との対決

 永正3年(1506)越前で一向衆や甲斐牢人からなる土一揆が蜂起しました。そして加賀一揆勢も越前に侵攻して、九頭竜川を挟む大規模な合戦となりました。朝倉氏は朝倉教景を大将として一揆を鎮圧しました。このときの一揆は北陸各地と畿内近国にわたる大規模なもので政治的な色合いが強く、細川政元と本願寺が組んで義尹(よしただ)派の大名を牽制しようとしたものとみられていますが、甲斐氏が大規模に越前に進攻した最後の合戦です。以後は、朝倉氏と甲斐氏の対立から、朝倉氏と一向一揆の対立という構図にかわっていきます。貞景は賀越国境を封鎖して加賀の一揆進攻に備えました。

 その後、京都では足利義尹が周防の大内義興に支援されて復帰し、朝倉氏は幕府に協力しましたが、近江などの国外出兵はひかえました。

 貞景は永正9年(1512)に鷹狩の途中で急死しました。その人柄は「気宇俗を抜き、目光人を射、三たび思うて行なう」といわれ、重厚かつ慎重な性格の人でした。

朝倉氏の内政

 朝倉氏の内政は一族と家臣が協力してあたりました。一族を「同名衆」といい、家臣の重臣を「年寄衆」とか「評定衆」といいました。史料には3代貞景のとき、評定衆が6人いて魚住氏もその一人だったと見えます。また5代義景のとき前波、魚住、桜井、青木、栂野(とがの)、詫美(たくみ)、山崎の7人の年寄衆の名が見えます。朝倉氏の政策を記す文書が奉行人連署状で出されるのも3代貞景のときからで、大体3人の奉行人が連署しました。その奉行人の家柄も定まっており、朝倉氏の庶流と前波、魚住、河合、小泉の諸氏でした。

 府中には前代の守護支配機構の小守護代両人を継承する府中両人を置いて府中を中心とする武生盆地周辺の丹南地域の領域支配と一国の段銭や棟別銭などの徴収事務にあたりました。

 敦賀郡と大野郡にはそれぞれ郡司が置かれ、当主一族の最有力者がその任にあたりました。

 その他越前の各地に領主的支配を認められた一族もおり、安居(あご)、織田、北庄(きたのしょう)などの居城によってその周辺の領を支配しました。

4代孝景

 4代孝景の時期になると、ほとんど数年ごとに若狭・近江・美濃・加賀などの隣国や丹後、京都などに出兵しました。いずれも当主の孝景は出陣せず、敦賀郡司や大野郡司などの一族が大部隊を率いて数か月にわたって在陣しました。これらの出兵の多くは将軍の要請によるもので、この地域の秩序維持のためのものでした。

 朝倉氏の実力の上昇に伴ない、幕府における朝倉氏の位置付けも変わり、ほぼ守護と同格となり、ついに孝景は御供衆から御相伴衆に列しました。こうした待遇は、もと幕府の重臣の役目によるものですが、このころは在国するものも多く、一種の称号になっています。

 このころ多くの国々において、飢饉や災害、戦乱などによって国内が疲弊し、人民が苦しんだことが伝えられますが、越前においては、一度も他国から攻め入られたことはなく、領国は全盛時代を迎えました。農業、水産業、手工業など諸産業も発展し、一乗谷の町並みや寺院、当主館の整備なども進んだとみられます。

 4代孝景は晩年出家します。その後、長男の義景が生まれました。当時大野郡司景高・敦賀郡司景紀という同じ貞景の子の世代の体制でした。ところが景高は孝景に背いて上洛します。孝景は将軍の足利義晴に景高の処罰を求めて容れられました。景高は本願寺証如に対して弟子になって越前の3郡を進上するなどと持ちかけて断わられ、ついに堺から九州へ落ち延びたといいます。このように大野郡司景高は当主孝景に謀叛を起こし失敗したのです。孝景は大野郡司を停止して直接支配としました。

 晩年孝景は幕府や禁裏に大金を進上して影響力を保持しましたが、病気がちで、また発給文書のうち重要な判物などの直状が少なくなるなど不明な点もあります。天文17年(1548)波着寺に参詣した帰りに急死しました。56歳でした。

5代義景の前半期

 朝倉氏の最後の当主義景の治世は、後に最後の室町将軍となる足利義昭の越前下向を境として前後に二分することができます。その前半期は父孝景時代からの朝倉氏の全盛期の延長線上にあり、また後半期は天下統一の過程にまきこまれる動乱の時代でした。

 16歳で家督を継いだ義景は父祖の遠忌供養や氏神の赤淵神社の顕彰など当主としての務めを見事に果たし、また家臣への知行宛行や寺社領の安堵など内政も充実しました。棗庄大窪の浜で犬追物を興行し、また一乗谷の脇坂尾で曲水宴を催すなど文武両道に秀でた大名でした。

足利義昭の越前逗留と織田信長

 朝倉氏と親密な関係を持った将軍の足利義輝が永禄8年(1565)阿波の三好氏らによって殺害されると、その弟で奈良の興福寺一乗院に入っていた覚慶は、朝倉義景と大覚寺義俊の尽力によって近江へと逃れました。この人物が足利義昭です。義昭は朝倉氏を頼って越前に3年にわたって逗留します。最初は敦賀に滞在しましたが、永禄10年(1567)加賀と越前の和睦が成立すると一乗谷に移り、義景は上城戸の外の安養寺の御所に入れて歓待しました。

 義景は義昭を親身になって後見し、元服の儀まで行ないました。しかし義昭は結局、尾張から美濃に移った織田信長を頼って上洛を遂げ、将軍になりました。

 織田信長は朝倉氏に上洛して服従することを命じましたが、朝倉氏はこれを拒否して国境の城を固め、また本願寺や延暦寺と連合を進めて信長に対抗しました。

元亀の争乱

 織田信長は三好氏と朝倉氏を敵として天下の儀の成敗権を義昭に認めさせ、4年にわたって朝倉氏を攻撃しました。朝倉氏はこれに正面から対決しました。ちょうどその期間が元亀の年号のときであることから「元亀の争乱」と呼ばれます。

 元亀元年(1570)4月信長は朝倉氏征伐に出発し、敦賀郡を攻略しましたが、近江の六角氏や浅井(あざい)氏がその背後を衝いたため失敗して京都に逃げ帰ったのです。その後、信長は三河から遠江に進出した徳川家康の合力を得て、近江姉川で決戦を行ないましたが、勝敗はつきませんでした。そして三好三人衆が攻勢を強め、また本願寺顕如が信長と対決する姿勢を明らかにしたことなどから朝倉義景は近江浅井氏や一向一揆と連合して近江坂本に出兵しました。朝倉氏は坂本から比叡山を保持し、京都進攻を図りました。信長は六角氏や阿波勢と和談を進め、越前勢の物資補給基地である堅田(かたた)を奪回しようとしましたが失敗し、結局足利義昭や禁裏にすがって和睦を乞い、兵を戻しました。
 

 翌元亀2年(1571)信長は前年朝倉氏に協力した比叡山延暦寺と坂本日吉社を焼き討ちして見せしめにしました。義景は信長の越前攻撃に備えて敦賀に滞在し、湖北と湖西の両方面に備えました。また10月には若狭小浜に出陣して、在地の寺社領を安堵しています。

 元亀3年(1572)になると信長が浅井氏の居城の小谷城に本格的な攻勢を強めたため、義景自ら出陣して小谷城の大嶽(おおづく)に6か月にわたって籠城しました。しかし兵粮米補給の不安から同年12月に越前へ帰陣したのです。

 元亀4年(1573)信長は湖西を攻め、義景は3月から5月まで敦賀に在陣して湖西方面と小谷城の両方に対処しました。

 一方、このころ足利義昭も信長に敵対し、信長は京都の上京を焼いて攻撃しました。義昭はいったん信長と和睦したものの、7月には京都から宇治の槇島城に移って抵抗しました。朝倉義景は浅井氏救援のため出陣して敦賀に在陣し、織田信長が岐阜に帰陣したすきに小谷入城を図りましたが失敗し、逆に退却の途中の近江から敦賀に至る刀根坂(とねざか)で信長方に大敗して大きな損失をこうむりました。

 義景は一乗谷に帰陣してその後同名衆の首席でいとこの大野郡司朝倉景鏡(かげあきら)の勧めにより大野郡に移りました。織田信長は府中龍門寺に着陣して、軍勢を遣わして一乗谷を破却させ、義景の探索を命じました。信長の先兵は8月18日から20日まで3日3晩にわたって一乗谷を谷中一宇残さず放火し、破壊しました。義景も20日景鏡の兵に囲まれ、自尽しました。享年41でした。

朝倉氏の滅亡

 その後、義景の母親光徳院と遺子の愛王丸は景鏡に生捕りにされ、景鏡は秀吉に降参しました。光徳院と愛王丸の身柄は府中の信長のもとに護送され、信長の部将丹羽長秀に預けられて、26日今庄の帰(かえる)の里で刺し殺され、堂もろとも火をかけて焼かれました。ここに朝倉氏の嫡流は絶えました。

 信長は、最初に信長方に寝返った大功を認めて、前波長俊を越前の守護代に任じて一乗谷の館にすえ、部将の滝川一益・羽柴秀吉・明智光秀の3人に越前の戦後処理を命じ、それぞれの代官が北庄に駐留しました。多くの朝倉氏同名衆は生き残って本領を安堵されましたが、苗字を変えられて、朝倉氏は解体しました。

 翌天正2年(1574)正月一乗谷は一揆勢に囲まれて落城し、城主の桂田(前波)長俊は敗死しました。永年の武士による越前支配に苦しめられた一揆勢は各地で蜂起し、また加賀からも七里頼周の軍勢が迎え入れられて、越前各地で朝倉氏とその旧臣が攻撃され、4月には平泉寺で土橋信鏡(朝倉景鏡)が討ち取られました。

 こうして越前を長く支配した朝倉氏は滅亡し、本願寺は下間頼照を越前の守護代として嶺北地方を支配させました。織田信長が、また越前に進攻して一向一揆を殲滅するのは天正3年(1575)8月のことです。このとき織田信長が一時一乗谷に在陣したのが、一乗谷の城郭としての最後の所見です。

朝倉氏の再興と一乗谷の再生

 織田信長や一向一揆によって越前を制圧された朝倉氏の一族が手をこまねいて滅亡したわけではありません。朝倉氏の同名衆の朝倉景嘉は、越前での朝倉氏再興が遅れているので越後の上杉謙信を頼って越後へ下向し、上方へ馬を進めるつもりだと天正2、3年(1574、75)ころの書状に記しています。また朝倉宮増丸は天正6年(1578)に、朝倉氏同名衆の鳥羽景富の子与三景忠を家督に立てて朝倉氏を再興することを、毛利氏の勢力に期待して備後の鞆に滞在していた足利義昭に要請しています。このように上杉謙信や毛利氏、足利義昭などの反信長勢力に働きかけて朝倉氏再興を計った朝倉氏一族がいたことは事実です。しかし結果的に謙信は急死し、毛利氏も中国戦線で苦戦し、それらの試みは失敗に終わりました。

 一方、一乗谷の住人、とりわけ商人や寺社は信長政権下でもその役割を認められて、柴田勝家の北庄城下に引っ越し、一乗町、一乗魚屋町などの町が形成されました。また一乗谷の大規模寺院だった西山光照寺、心月寺、安養寺なども北庄城下の周縁部に移転され、今に至っています。朝倉氏の時代に築かれた商業や宗教活動の伝統は、絶えることなく近世の城下町に引き継がれたのです。