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38 復原町並 武家屋敷群

この地区は「一乗谷古絵図(こえず)」に、朝倉氏の有力家臣の名が多く見られる所で、これを裏付けるように、発掘調査では、計画的に造られた道路と、整然と配置された多くの大規模な屋敷が検出されました。これらの屋敷は、約30m、当時の単位でいえば100尺を基本単位として計画されていたことが知られ、その屋敷の間口の多くは、30mもしくはこの1.5 倍や2倍の長さで計画的につくられています。道路は、この地区の北の端で、戦国時代の城下町を象徴するように、矩折(かねおれ)形に折れ曲がっています。屋敷はこの南北方向道路の両側にありますが、西の山裾側が東の川側のものに比べて数倍大きくなっています。最も大きな屋敷は、間口60m、奥行き70m、面積4,200 ㎡(約1,270坪)あります。各屋敷は、塀の基礎と考えられる石垣で囲まれており、この上に土塀が築かれていたと考えられます。また、道路に対して門が開かれており、その間口は10尺(3m)です。この門の建物の跡も明らかで、西の山裾の屋敷では、礎石4個を用いた四本柱の薬医門(やくいもん)形式と考えられるのに対し、東の川側の屋敷では掘立柱(ほったてばしら)2本からなる棟門(むなかど)形式であり、格式の差が見られます。屋敷の中の建物については、削平されている所が多く、はっきりしない点もありますが、基本的には、正面、南寄りに、接客や主人の住まいとなる建物や庭園が設けられ、奥には、蔵や台所、工房、家人の住まいなどが設けられていたことが知られています。