遺跡散策
1.福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館
2.西山光照寺跡(にしやまこうしょうじあと)
戦国時代に隆盛(りゅうせい)を極めた天台宗(てんだいしゅう)真盛派(しんせいは)の大寺院跡で、朝倉氏一族内の争いに敗れた、初代朝倉孝景の叔父の鳥羽将景(とば まさかげ)の菩提を弔うために建てられました。後に、盛舜上人(せいしゅんしょうにん)によって再興された寺院と伝えられています。これまでの発掘調査で、340体以上の石仏・石塔、巨石を用いた石垣や溝、本堂跡などが見つかっています。ここでは、礎石(そせき)建物跡や、陶磁器などが出土した地下式倉庫跡、溝跡、石積施設跡などの遺構を見ることができます。寺院跡には、3mほどの大きな石仏をはじめ40体ほどの石仏が向い合うように並んでいます。山際の平坦地に、本堂などの中心的な建物があったと考えられています。奥の山道を登ったところの平坦地には墓地跡があり、石仏や石塔が多く残っています。
3.安波賀・武者野(あばか・ふしゃの)
この地区は、戦国時代、城下内と城下外との接点の役割を果たしていたところです。明応7年(1498)には、ここは、「越前の入江、唐人の在所」とよばれていました。川湊(かわみなと)として、船着場があり、川舟が行き来していました。唐物(からもの)の売買が盛んな流通の町として、周辺には町屋や蔵、寺院などが建ち並んでいたようです。また、安波賀河原においては、永禄5年(1562)8月に曲水宴(きょくすいのえん)が催されました。豪華で華やかな曲水宴の様子は、「希代の興遊、末世の美談」と記録されています。さらに、記録によれば、一向一揆との合戦による、敵味方の亡魂供養の経堂も建てられていました。安波賀地区から足羽川を500mほど上流には、武者野の地があります。武者野は、火葬場と推定されるところで、人の死に関わる場所であったようです。
4.安波賀春日神社(あばかかすがじんじゃ)
朝倉氏によって社領の寄進や社殿の造営が行われましたが、天正元年(1573)、織田信長の越前侵攻により、一乗谷が火の海となった際、社殿も焼失してしまいます。神官であった吉田氏は、御神体と共に甲斐国に落ち延びたと伝えられています。江戸時代に入っては、福井藩主松平氏によって、元禄10年(1697)に社殿が再建されました。現在に残る社殿は江戸時代に建てられたもので、本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)、銅板葺、拝殿は入母屋造(いりもやづくり)、銅板葺となっていて、福井市の指定文化財となっています。また、春日神社の社殿より山上には瀧殿社(たきどのやしろ)があります。こちらも福井市の指定文化財になっています。瀧殿社は、朝倉氏最後の5代目当主義景の分霊を祀ったものとして残っています。
5.下城戸跡(しもきどあと)
一乗谷の北端の谷幅が最も狭くなったところに下城戸が構築されています。敵の攻撃や侵入を防ぐためにつくられました。現在は高さ4m、長さ38mの土塁が残っています。土塁の西側に巨石を組み合わせた通路跡があって、ここが城下町の入口になっていました。この通路跡は、外側から町の中を見ることができないように防御のため、矩折(かねおれ)状につくられています。城戸の内側には、広場のような空間になっており、その広場の南側に町屋地区が形成されていたことが分かっています。
6.出雲谷(いずもだに)
出雲谷には、城門を固める重要な家臣のひとり、魚住出雲守(うおずみいずものかみ)の屋敷跡があります。江戸時代に、城下町があったころの一乗谷を描いた「一乗谷古絵図」には、「魚住出雲守」のほか、「朝倉斎兵衛」、「佐々生(さそう)光林坊(こうりんぼう)」などの有力武将の名前が記されています。これらの武将がこの周辺において、朝倉氏の城下町を守っていたようです。
7.瓢町(ふくべまち)
道路の西側の端に、共用とみられる井戸があり、南北道路の東側に沿って商人などの町屋が並んでいたことがうかがえます。越前焼の大甕(おおがめ)8個を埋設している町屋跡もあって、大量の液体を使用する職人の住まいだったとうかがえます。不良製品となった土師質(はじしつ)皿の多量の破片と2連式の竈(かまど)が確認されていますので、カワラケ職人の住まいと考えられます。東側の一段低い場所には、大きな区画が存在し、小区画に住む町屋の住人とは違った上流階層の人の住まいも存在したことがうかがえます。
8.中惣(なかそう)
江戸時代に、城下町があったころの一乗谷を描いた「一乗谷古絵図」によると、朝倉景鏡(かげあきら)の館があったところといわれています。朝倉景鏡は、朝倉最後の当主5代目義景のいとこにあたり、朝倉氏一族のなかでも特に地位が高く、大野郡司(ぐんじ)として現在の大野市あたりを治めていました。当主の館である朝倉館に次ぐ広い屋敷で、南北には堀と土塁があります。敷地の規模は5千㎡以上と推定されています。ここからは、中世の尺八の一種「一節切(ひとよぎり)」が発見されました。当時、どのような音を奏でていたのでしょうか。天正3年(1573)、この朝倉景鏡の裏切りによって、越前朝倉氏は、5代目当主朝倉義景で終焉し、やがて戦国時代の幕も閉じられます。
9.権殿(ごんどの)
江戸時代に、城下町があったころの一乗谷を描いた「一乗谷古絵図」によると、この場所には「朝倉権ノ頭(ごんのかみ)」の屋敷があったようです。発掘調査の結果では、中規模の武家屋敷跡と、その北東側に下級武士や町人の小規模な屋敷跡が確認されています。また、一乗谷で初めて温石(おんじゃく)が発見されています。温石というのは、石鍋などを転用して、現在の使い捨てカイロのように、体を温めるものとして、熱して布に包んで使っていたようです。
10.上殿(うえどの)・馬出(うまだし)・小見放城跡(こみはなちじょう)
上殿には、蔵と推定される石敷(いしじき)の礎石建物跡が見つかっています。馬出には、南北方向に走る道路跡や屋敷跡が見つかっています。馬出の北側の高台には、無数の平場(ひらば)があって、ここには多くの屋敷があったと推定されています。馬出の付近には、尾根を断ち切り敵の侵攻を防ぐための堀切(ほりきり)や尾根状に造られた小城(こじろ)、小見放城といった櫓(やぐら)跡もあります。ここから山頂を目指して登りますと、途中に、安山岩(あんざんがん)に線刻された磨崖仏(まがいぶつ)や石製の不動明王(ふどうみょうおう)が座り、戦国時代の水源だったと伝えられる湧水「不動清水(ふどうしょうず)」をみることができます。麓から1時間ほど登ると、千畳敷(せんじょうじき)などからなる山上御殿群(さんじょうごてんぐん)に到達することができます。
11. 一乗谷城(いちじょうだにじょう)
一乗谷から東に見える山は、標高475mの一乗城山です。山頂には、有事に備えての山城、一乗谷城が築かれていました。この城を中心にして、南に「三峰(みつみね)城」、西に「槙山(まきやま)城」、北に「成願寺(じょうがんじ)城」などの支城(しじょう)が配置され、一乗谷の守りを固めていました。三方を山で囲まれ、北には足羽川を持つ地形である一乗谷は、防御にとても適しています。また、地勢的にも越前国の中央に位置しています。朝倉氏はこのような条件を踏まえて一乗谷を拠点に選び、足羽川流域にその勢力を拡大したと考えられています。江戸時代に当時の一乗谷を描いた「一乗谷古絵図」には、山城については、「山上御殿群(さんじょうごてんぐん)」として、千畳敷(せんじょうじき)、観音屋敷(かんのんやしき)、月見櫓(つきみやぐら)などの方形区画群が描かれています。一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸と示された連続曲輪(くるわ)群も描かれています。現在でも、このような曲輪を多く目にすることができます。千畳敷は、山上御殿群の一画で、山の斜面を削って平坦な地を造っています。ここでは、列状に並んだ大きな礎石(そせき)を見ることができます。千畳敷付近の宿直跡(とのいあと)からは、周辺の山城のほかに福井平野や三国港、日本海を見渡せることも可能です。千畳敷の近くには、赤淵神社跡(あかぶちじんじゃあと)があり、一乗谷の鎮守(ちんじゅ)として存在していたようです。南には月見櫓跡、北には櫓跡があり、さらに外側には、等高線に対して直角方向に斜面を掘って造る畝状(うねじょう)竪堀(たてぼり)が連続して設けてあります。畝状竪堀は、山城全体で140条も造られており、大変強固な防御施設であったことがうかがえます。しかしながら、実際には一度も使用されることはなかったようです。通常の住まいとは別に、有事の際に築かれた山城ですが、朝倉氏が最後を迎えた、天正元年(1573)の織田信長の越前侵攻の際にも、この堅牢(けんろう)な山城を実際に使用することはなかったのです。
12.平面復原地区 鉄砲鍛冶師
ここは、平面復原地区の中で、火縄銃の部品や鉛地金(なまりじがね)、300 余りの鉛の弾丸など、鉄砲製作に関係する遺物が一括して発見されたところです。弾丸製作の一工程を示すような、容器の中に溶着したままの弾丸や、弾丸の原材料として推定されている鉛棒(なまりぼう)が発見されています。鍛冶(かじ)遺構は確認されていませんが、付近の職人の町屋よりも規模が大きい屋敷跡が確認されており、鉄砲に関わる職人頭の家であったと想定されています。
13. 平面復原地区 サイゴー寺跡
サイゴー寺跡は、平面復原地区の中心に立地し、多量の石仏や塔婆(とうば)、中国製の香炉、銅製の鉦(しょう)などが発見されています。南側には、墓地跡が発見されました。曲物(まげもの)、桶(おけ)、木箱などを用いた棺桶や笹塔婆(ささとうば)、柿経(こけらきょう)などの宗教に関わるものが多く見つかっています。柿経は、幅3cm弱、長さ30cm、厚さ0.3cm程度の薄い板に、法華経(ほけきょう)や法華題目(ほっけだいもく)を書き写したものです。およそ2,000枚を1束にして、墓の前に立てたり、火をつけたりするなどして使用し、供養をしていたようです。この地点からは、6束もの柿経が発見されました。また、火葬が一般的と当時考えられる中で、乳幼児などの子どもが土葬されていたことを示す骨片なども発見されています。
14.平面復原地区 数珠作り
ここは、平面復原地区の中で、数珠作りの作業場と推定されるところです。水晶の数珠玉(じゅずだま)のほか、その製作途中の未完成品、穴をあけるときに失敗した数珠玉、荒割(あらわり)の段階で剥離した破片、数珠玉を研磨する砥石(といし)などが多数発見されています。このあたりは、南北幹線道路跡の両側に接した間口の狭い短冊形の区画が密集していて、各種の店や工房などが軒を連ねていたことがわかっています。城戸の内でも、最も音や色、匂いに満ちた活気あふれる一画だったのではないでしょうか。数珠挽き(じゅずびき)のほかにも鋳物師(いもじ)、塗壁師(ぬりかべし)、檜物師(ひものし)の家や、越前焼の大甕(おおがめ)をいくつも並べた紺屋(こんや)や鍛冶、左官屋だったと考えられる場所も確認されています。出土品からは、多くの職人の存在と当時のものづくりの技術の高さがうかがえます。
15.平面復原地区 檜物師
ここは、平面復原地区の中で、曲物(まげもの)などを製作していた檜物師(ひものし)の家と考えられているところです。紐状(ひもじょう)の桜の皮やヘギ板が多数見つかっています。曲物というのは、容器のことで、檜(ひのき)のような木目のよく通った木から薄いヘギ板を造って、これを円く曲げて、紐状の桜の皮などで止めて、容器の外側を作り、底を付けたものです。周辺には、檜物師のほか、鋳物師(いもじ)、塗壁師(ぬりかべし)、数珠作り(じゅずつくり)の家や、越前焼の大甕(おおがめ)をいくつも並べた紺屋(こんや)や鍛冶、左官屋だったと考えられる場所も確認されています。近世の城下町のように、同じ種類の職人町を形成するにはいたっていません。各種の店舗や工房が混在して軒を連ねていたようです。
16.平面復原地区 医師
ここは、平面復原地区の中の医師の屋敷跡と考えられるところです。薬の調合道具や「湯液本草(とうえきほんぞう)」という医学書の一部が発見されています。当時は、戦乱で荒廃した京都から多くの公家や僧侶、学者、芸能者などが一乗谷に下向(げこう)してきており、手厚いもてなしを受けていました。丹波(たんば)、半井(なからい)などの名医も一乗谷に下向していました。中国の医学を修めた谷野一柏(たにのいっぱく)もその一人でした。朝倉4代孝景の要請により、谷野一柏は、中国の医学書「八十一難経(なんぎょう)」の校正と出版を行いました。医学書としては、国内2番目の古さになるものです。一乗谷には、国内でも最高レベルの知識を持つ医師たちが存在していたのです。
17.平面復原地区[全般]
平面復原地区では当時は砂利を敷いてあった道路やその道路に沿って計画的に区画された戦国城下町の跡を見ることができます。一部ですが、礎石や井戸、溝などの当時の石を使った露出展示がされています。城下町は30m、当時で100尺(しゃく)を基準にして都市計画されています。町人の家は、道路に面して間口(まぐち)6~9m、奥行12~15mの区画が密集しているところで、隣家と接して建てられていました。各種の店や工房が混在して軒を連ねていたほか、東西道路跡や南北幹線道路跡、サイゴー寺跡などの寺院跡、武家屋敷跡、医師の屋敷跡も発見されています。この地区は一乗谷の中でも最も活気あふれる一画だったのではないでしょうか。
18.八地谷・雲正寺(やちだに・うんしょうじ)
ここは、「八地千軒」といわれるように、当時は谷の奥まで屋敷が建て込んでいて、多くの人々が住んでいたといわれています。谷を流れる川に沿って、他のところではあまり確認されなかった、多くの掘立柱(ほったてばしら)建物跡が発見されました。川の左岸からは、墓地跡や五輪塔(ごりんとう)など石造りのものが多く発見され、周辺には多くの寺院が存在したものと考えられています。また、石積(いしづみ)で護岸されていたと考えられるこの川からは、高さ約2.5mの笏谷石製(しゃくだにいしせい)の石灯篭(いしどうろう)が出土されました。
19.斉藤(さいとう)
この地区から一乗谷川を挟んで対岸に、当主の館の門、現在の「唐門」を眺めることができます。西側の尾根上には、月見櫓(つきみやぐら)が存在していたようで、ここは、城下町のなかでも重要な位置を占めていたと考えられます。西側の山裾には大規模な武家屋敷跡が並んであったことが確認されています。町並立体復原地区から、矩折(かねおれ)となっているところを経て、続く、南北道路跡は、約4mの幅で、路面は全体に砂利を敷き詰め固めていたものでした。一部には、笏谷石(しゃくだにいし)製の切石(きりいし)を踏み石のように並べているところも残っています。
20.瓜割清水(うりわりしょうず)
古くから朝倉氏の御膳水(ごぜんすい)に供したと伝えられています。往時からどんな干ばつでも枯れたことがないといわれていて、一乗城山(いちじょうしろやま)から銅の筒で引いてきているとの伝承もあります。夏は冷たく、冬は温かな清水が今でも滾々(こんこん)と湧き出て、地元の方々の生活用水としても利用されています。
21.南陽寺跡(なんようじあと)・特別名勝一乗谷朝倉氏庭園南陽寺跡庭園
南陽寺は朝倉氏一族により創建されたと伝えられる尼寺です。仏殿とされる建物と庭園が確認され、庭園は特別名勝に指定されています。約5,000㎡の規模で、当時は、「北国(ほっこく)でもたぐいまれ」といわれていたほどでした。永禄11年(1568)春、朝倉5代目義景は、この南陽寺に、後の15代将軍足利義昭を招いて、「桜を楽しむ歌会」を盛大に開催し、もてなしました。そのときの二人の歌が伝えられていますので、紹介します。足利義昭「もろ共に 月も忘るな 糸ざくら 年の緒ながき 契と思はば」これは、義景に向けて、長い付き合いを望むといった意味と考えられています。義昭の歌に対して、義景は、「君が代の 時にあひあふ 糸桜 いともかしこき けふのことの葉」とこたえました。 これらの歌からも当時の繁栄ぶりや華やかな文化がうかがえます。しかし、義景は、足利義昭の期待に反して一乗谷から動かなかったため、足利義昭は一乗谷を離れ、織田信長を頼って岐阜に移りました。
22.朝倉館跡・唐門(あさくらやかたあと・からもん)
ここは、全国で唯一発掘整備された戦国大名の館跡である朝倉氏5代目の朝倉義景の館跡です。この館は朝倉義景が政治など諸事を行っていたところで、城下町のほぼ中心に建てられています。この朝倉館の敷地面積は約6400㎡あり、同時代の京の細川管領(ほそかわかんれい)邸にも匹敵するもので、全国に名をはせた朝倉氏の居館にふさわしいものです。土塁の内側の平坦地には、10数棟の建物が整然と立ち並んでいました。これらの建物は、大きく2つの区画に分けられ、1つは、南半分の敷地を占め、主殿(しゅでん)を中心とした接客の機能を持つ施設群になっています。会所(かいしょ)や数寄屋、特別名勝のひとつである朝倉館庭園や日本最古の花壇遺構などがみられます。この主殿では、後の15代将軍足利義昭が一乗谷を訪れた際、大変雅で豪華な宴が催されたようです。もう一つは、常御殿(つねごてん)を中心に北側に位置するもので、主人の日常生活の場となっており、台所や湯殿(ゆどの)などがみられます。ここからは、茶器や花器などの中国製陶磁器の逸品が出土していて、戦国大名の栄華と華やかな一乗谷の文化をうかがい知ることができます。館は、三方を幅8m、深さ4mの堀と土塁で厳重に守られていて、背後の山には、守りの要である山城の跡があります。また、背後の高台には、北から順に、南陽寺跡(なんようじあと)、湯殿跡(ゆどのあと)、中の御殿跡(なかのごてんあと)、諏訪館跡(すわやかたあと)があり、当主一族の住居が集まって建てられていました。館の正面・西門には、一乗谷朝倉氏遺跡のシンボルである唐門があります。この門は、朝倉5代目義景の菩提を弔うために江戸時代に建てられたと推定されています。春には門の脇の薄墨桜(うすずみざくら)が美しく、夜間のライトアップもされています。また、朝倉館の東南部には、義景の墓所があります。
23.特別名勝一乗谷朝倉氏遺跡庭園 朝倉館跡庭園
朝倉館跡の最も奥の山裾につくられた庭園です。遺跡内には、この朝倉館跡庭園をはじめ、15か所以上の発掘された庭園が確認されています。これほどの数の庭園が確認されている遺跡は、全国的にみても、この一乗谷朝倉氏遺跡だけです。さまざまな種類の庭園があり、一乗谷で、庭づくりが盛んに行われたことがうかがえます。朝倉館跡庭園の特徴は、池の底に、平らな河原石を全体に敷き詰めていることです。庭園のそばには、庭園を鑑賞し、茶会に使われたと考えられている、数奇屋(すきや)の建物があります。庭園の要所には、坂井市三国町安島(あんとう)から運んできた「安島石(あんとういし)」が据えられています。約30㎞離れた越前海岸からわざわざ運搬しており、庭園を構成する石へのこだわりもうかがえます。この庭園を朝倉館跡とともに見て、当時、後の15代将軍足利義昭を迎えて催された華やかな宴の様子などを想像してみましょう。
24. 特別名勝一乗谷朝倉氏遺跡庭園 湯殿跡庭園(ゆどのあとていえん)
朝倉館跡内の高台に位置する湯殿跡庭園は、戦国時代の荒々しく勇壮な石組(いしぐみ)が残る庭園です。「観音山(かんのんやま)」とよばれる小さな山を背景として、巨大な石を用いた石組から戦国大名朝倉氏の風格や気勢を感じることができます。庭園に向かって右側から、山裾に沿って、石で組まれた水路が確認されていますので、当時は、池に水が満たされていたことがわかります。一乗谷朝倉氏遺跡には、さまざまな庭園があります。この湯殿跡庭園のように戦国時代の武士らしい鬼気迫るような庭園もあれば、当主の妻のために作られた優美な庭園など、さまざまな庭園を楽しむことができます。
25. 中の御殿跡(なかのごてんあと)
中の御殿跡は、朝倉5代義景の母「高徳院(こうとくいん)」の屋敷跡です。屋敷は湯殿跡(ゆどのあと)庭園や諏訪館跡(すわやかたあと)庭園などと並んで、高台に位置するところに建てられていました。当主の屋敷に母や妻子が居住した義景時代の華やかな生活の場が想像できます。屋敷は南の道路跡に対して門を構え、この道路跡に面する南と東側に土塁、さらに東側の土塁の外側と北側に空濠(からぼり)を巡らせています。門から入って右手には、小規模な建物と庭園の跡があります。残念ながら、庭園の石は、終戦直後に畑耕作などのために抜き取られたようで、ほとんど残っていません。発掘調査で、かろうじて庭園の池の輪郭と水路が確認され、当時は、水が満たされていたと想像されます。建物全体の規模などは不明です。
26.中の御殿跡 展望所
中の御殿跡展望所では、物見台として戦国大名朝倉氏の城下町である一乗谷を一望できます。物見台は、来訪された方々の遺跡への理解を深めていただくため、また、遺跡全体の魅力を向上させるために、当時の地形を利用して、「実像の戦国城下町」の姿を全体に広く見渡すことができる遺跡の真ん中の高台に設置されました。物見台から一乗谷を眺望しながら、往時には、武家屋敷、町屋、社寺等が密集して町を形成し、1万人の人々が生活する巨大な都市がこの一乗谷にあったことに、想いを馳せてみてください。
27.英林塚(えいりんづか)
英林塚は、戦国大名朝倉氏初代孝景のお墓です。「英林(えいりん)」という名は、孝景が出家した時の名です。初代孝景の頃は、京都で応仁の乱(1467~77年)が起こり、戦国時代幕開けの頃になります。孝景は、応仁の乱で活躍し、越前守護の斯波(しば)氏に代わって越前一国を支配しました。「朝倉英林壁書(へきしょ)」ともいわれている「朝倉孝景条々(じょうじょう)」は、朝倉家の家訓として、嫡男(ちゃくなん)である氏景(うじかげ)に書き与えました。内容は、「世襲ではなく、能力と忠節により人材を登用せよ」「有力な家臣は、一乗谷に住まわせ、郷村(さとむら)には代官を置け」などが有名です。ほかにも「質素倹約を重んじ贅沢の禁止」「奉行職を世襲させない」「名刀購入の戒(いまし)め 一振りの名刀よりも槍100本」「合戦の城攻めに吉日選びや占いをしない」「猿楽(さるがく)見物より、才能のある者を習いに行かせよ」や「情報収集の必要性」「人材確保」「公平な裁判」などがあります。当時の常識からかなり進んだ考え方を持ち、孝景がいかに優れた武将であったかがわかります。
28.特別名勝一乗谷朝倉氏遺跡庭園 諏訪館跡庭園(すわやかたあとていえん)
諏訪館跡は、朝倉5代当主義景の妻「小少将(こしょうしょう)」の館跡と伝えられています。諏訪館跡の中にある庭園は、この遺跡の中でも最も規模が大きく壮麗で、義景が寵愛した妻「小少将」のためにつくったと伝えられています。戦国時代の池泉(ちせん)庭園では、日本でも第一級の豪華さを誇る庭園です。滝口の右にある巨大な石は、「諏訪(すわ)の立石(たていし)」と呼ばれ、高さが4m以上あります。諏訪の立石には、朝倉氏供養のために、朝倉氏の参謀(さんぼう)であった朝倉教景(のりかげ)、朝倉3代当主貞景(さだかげ)、4代当主孝景(たかかげ)の法名が江戸時代以降に彫られ、今に残っています。小少将は、義景との間に嫡男「愛王丸(あいおうまる)」をもうけますが、天正(てんしょう)元年(1573)、義景自害の後、母高徳院(こうとくいん)、妻小少将、嫡男愛王丸(4歳)は義景のいとこであった朝倉景鏡(かげあきら)に捕えられ、今庄の帰里(かえるのさと)付近で殺害されてしまいます。
29.米津(よねづ)
米津では、平成19年(2007)に発掘調査され、刀装具(とうそうぐ)の土製文様型や坩堝(るつぼ)、トリベなどが出土し、炉跡も発見されました。一乗谷に、刀装具を製作する特殊な工人や金工師(きんこうし)が存在していたようです。平成20年(2008)には、ガラス製作にかかわる遺物を多量に出土しました。工房跡も発見され、ガラス玉を製造する職人も存在していたようです。室町時代のガラス製品は、輸入にたよるところが大きいとされ、国内の生産に関しては、ベールに包まれていました。これまでの国内での発見は、山科(やましな)本願寺(ほんがんじ)跡での発掘調査成果に限られていたところでしたので、日本ガラス工芸史を解明する上でも重要な発見となりました。ここは、最先端の技術を駆使する朝倉氏直属のおかかえの職人集団が、上級武士クラスの大きな屋敷に住み、刀装具やガラス製品などを製作していた場所だったと考えられています。特殊技術が必要な製品を一乗谷で製作していたということは、朝倉氏の工芸技術力の高さがうかがえるだけでなく、戦国大名朝倉氏の力の大きさを示しています。
30.上城戸跡(かみきどあと)
上城戸跡は、城下町の南端に位置し、谷幅が最も狭まった場所に築かれた防御施設です。長さ100m、高さ5mの土塁になっていて、土塁の外側には堀が設けられ、敵の侵入を防いでいました。1.7 ㎞北にある下城戸跡(しもきどあと)と対の施設です。この高く長い土塁と濠(ほり)、そして川や山に囲まれた自然の地形を利用して城門を置くことで、南側の守りを固めていました。土塁の上からは、一乗谷の奥まで一望できます。付近からは町屋跡や道路跡が見つかっており、上城戸跡の際まで城下町が広がっていたことも分かっています。上城戸跡の城下外は、下城戸跡外側の城下外と同様に、一帯には町屋が建ち並んで、山裾にはたくさんの墓地を伴う寺院跡が残っていたと考えられています。また、上城戸跡の外には、絵図や字名などから、美濃から逃れてきた斎藤龍興(たつおき)や近江の浅井氏(あざいし)などの有力武将の屋敷もあったようです。さらに、一乗谷の大手道(おおてみち)を西に進むと、東大味(ひがしおおみ)地区に入りますが、ここには、当時、朝倉氏に仕えていた明智光秀の館といわれる館跡があります。現在では、明智神社の祠(ほこら)があります。
31.御所・安養寺跡(ごしょ・あんようじあと)
ここは、後の室町幕府最後の将軍足利義昭が一乗谷に下向(げこう)し、こちらを御所として、永禄10年(1567)から翌11年にかけての9か月滞在したところです。安養寺は、文明5年(1473)、初代朝倉孝景が一乗谷に建立したと伝えられています。広大な寺地土地を持つ、一乗谷で最も大きな寺院の一つで、かつ最も格式の高い寺院でした。安養寺の北側の隣地(りんち)を御所としたのも規模の大きな安養寺があることが一つの要因であったようです。
32.心月寺跡(しんげつじあと)
「心月」は初代朝倉孝景の祖父朝倉教景(のりかげ)の道号(どうごう)です。孫譲りで家督を相続した孝景は、祖父を偲んで心月寺を創建しました。現在の一乗小学校の西側の、山際一体の広い範囲が心月寺跡と考えられ、創建当時では一乗谷最大級の寺院でした。戦国時代の心月寺の様子について、詳しいことは分かっていませんが、明応4年(1495)、奥州(おうしゅう)の大名白川政朝(まさとも)が物詣(ものもうで)のために上洛する際、心月寺に寄宿しました。そのときに寄宿を依頼した書状によると、馬50疋、人数700人の大部隊が宿泊できたと推定されます。心月寺の当時の規模はそのような大部隊が宿泊できるほどの大きさだったようです。
33.盛源寺(せいげんじ)
盛源寺は福井市春日にある現在の清源寺(せいげんじ)に相互に関係すると考えられています。清源寺は、明応(めいおう)年中(1492~1501)開山真盛上人(しんせいしょうにん)が天台真盛宗の寺院を一乗谷に建立し、天正年中(1573~92)に福井市の北庄(きたのしょう)に移り、慶長(けいちょう)年中に量覚上人(りょうかくしょうにん)の代に浄土宗に改宗したとされています。一乗谷の盛源寺には、3m近い大きな地蔵をはじめとして、大小約700体の石仏等が存在します。周辺の盛源寺墓原(ぼげん)では約220体の石仏等が確認されています。
34.復原町並 町屋群(まちやぐん)
町屋群では、西の山側では土塀(どべい)で囲まれ、門をかまえる大規模な屋敷が整然と見られるのに対して、東側では、小さな建物が連続して道路に接して見られます。最初は、ここも大規模な屋敷であったようですが、朝倉時代の後半になって、現在見られるように小さく町割りされたことが、確かめられています。これらの小規模な屋敷は、町を構成する庶民としての職人や商人の住まいと考えられています。しかし、まだ、刀狩りも実施されておらず、下級武士や農民、職人、商人などの身分は、明確に分かれていませんでした。ただ、朝倉氏との主従関係を持ち、いざ、戦(いくさ)となれば、戦場に出かけた人々が多かったと考えられています。これらの小規模の屋敷は、大きく二つに分けることができます。一つは、南北方向の道路に面してみられるもので、屋敷境に溝があり、各屋敷内には建物と共に井戸、便所を備え、独立性が高いものです。建物の多くは、「妻入り(つまいり)」と呼ばれる建て方で、道路に屋根の端、すなわち「妻」を見せています。もう一つは、東西方向の道路に面したもので、屋敷の境が必ずしもはっきりとしていないものです。建物は「平入り(ひらいり)」と呼ばれる建て方で、軒が連続するように続いており、中には井戸や便所を欠くものもあります。
35.復原町並 有力者の家
この屋敷は、敷地間口約10mで、通常の1.5 倍の大きさを持っています。建物は、正面3間半、奥行き3間と比較的規模も大きなものであり、また、井戸は建物内と裏庭に2基持つという整ったものです。こうしたことから、この屋敷の住人は、有力者と設定して、生活状況の復原を実施しています。 建物は、礎石(そせき)配置や井戸などから、床を持つ二つの部屋と、大きな井戸の見られる土間から構成されていることが判明しました。建物の構造は、当時の建物遺構などから考えると、柱と梁(はり)、そして貫(ぬき)で固める比較的簡単なものと思われます。また、一乗谷では、柱は礎石の上に建てるという、当時としては進んだ技術を用いているのが一般的です。柱の大きさは、出土したものから決定できました。梁や貫は推定ですが、ここで実施したように、近世の農家に見られるものとは異なり、比較的断面の小さな梁と厚い貫が一般的であったと考えられています。屋根は、一乗谷のような都市においては、板で葺くのが一般的と考えられています。柱や梁、板などの木材は、松が中心です。これを手斧(ちょうな)や鎗鉋(やりがんな)などの当時の技術を再現して加工しています。また、前寄り6畳の広さの部屋は居間です。2ヶ所の窓には有力者の家にふさわしく、板の引き戸が入れられています。ここには笏谷石(しゃくだにいし)で作られた炉も復原しています。奥の4畳半の部屋は、納戸(なんど)で、寝間(ねま)となります。土間は台所を兼ねており、炊事の為の設備や道具を置いています。裏庭には、井戸と便所もあって、これらを復原しています。
36.復原町並 紺屋(こんや)
ここは、町並立体復原地区 紺屋(こんや)の建物です。この屋敷は、正面幅が約6m、当時の単位で20尺、隣との境として溝が見られ、井戸を持ち、裏庭に便所を配置するという、一乗谷の小規模屋敷の典型例といえるものです。そして、ここで注目されたのは、建物の中に、直径約90cm、高さ約90cmの大きな甕(かめ)を据え付けていたことでした。このことから、染め物(そめもの)を職業とする職人の住居と推定されました。建物は、正面2間(けん)半約4.7m、奥行き3間半約6.6mの規模ですが、その内部の多くは、甕の据付け場として用いられているため、床を持つ部屋部は狭く、一部屋となっています。正面及び背面の2間半を、ちょうど二つに分ける位置に少し大きめの礎石を配置していたことから、これが、屋根の中央の棟木(むなぎ)を支える柱と考えられました。柱には栗の木を、梁や板には松の木を用い、表面は、出土材(しゅつどざい)や他の資料に基づいて、当時の一般的な技術である手斧(ちょうな)や鎗鉋(やりがんな)で仕上げています。裏庭の便所は、屋根を茅葺(かやぶき)としました。 染料を入れた大きな甕を据付け、作業をするには、広い場を必要としました。そのため、日常のくらしの場は、切り詰められており、3畳の広さの板の間で、寝食すべてをまかなったものと思われます。染め物の液体は、温度管理が必要なため、甕は土の中に埋められています。藍染(あいぞめ)は、4個の甕が一つのセットとなっています。反対側の甕は、草木染(くさきぞめ)です。一乗谷では、こうした染め物を職業としたと考えられる、大きな甕を多数据え付けた屋敷もたくさん発見されています。
37.復原町並 商家
東西方向の道路に面して軒をつらねて連続する建物群の中にあって、南北方向道路との交差点に位置しているこの建物は、3間約5.6m四方の規模を持つ、比較的規模の大きなものです。溝にかけられた大きな石から、入り口が中央やや東寄りにあったこともはっきりしています。また、その少し南には井戸も設けられています。こうしたことや、その柱位置を示す礎石の配置から、建物の平面も読み取れます。西半分が床の張られた部屋の部分で、ここはさらに二つに分かれます。この床の張られた所は、都市住居の場合は、商家では「ミセ」、職人の家では「作業場」、そして居間等として使われ、奥寄りに閉鎖的な納戸(なんど)が設けられるのが一般的です。納戸は、寝間(ねま)として使われます。入り口や井戸がみられる東半分は土間と考えられます。土間は、主として炊事などの諸々の作業の場となります。このような一乗谷の町屋(まちや)では、この土間部に井戸があるのが一般的です。また、炊事のための炉などが設置されていたと考えられます。建物は復原していませんが、裏庭には、便所の跡も見られます。ここでは、道路の交点という位置をいかして、この家に住んでいたのは、焼き物などを売る商人という設定をしてみました。「ミセ」には、商品であるいろいろな焼き物が置かれています。これを売っているのは、女性です。戦いに出る主人のものと思われる鎧(よろい)や刀も置かれています。また、納戸の入り口で、子供が恥ずかしそうに客をみつめています。土間には炊事のための炉や甕などの生活道具、そして商品と思われる荷物があります。
38.復原町並 武家屋敷群
この地区は「一乗谷古絵図(こえず)」に、朝倉氏の有力家臣の名が多く見られる所で、これを裏付けるように、発掘調査では、計画的に造られた道路と、整然と配置された多くの大規模な屋敷が検出されました。これらの屋敷は、約30m、当時の単位でいえば100尺を基本単位として計画されていたことが知られ、その屋敷の間口の多くは、30mもしくはこの1.5 倍や2倍の長さで計画的につくられています。道路は、この地区の北の端で、戦国時代の城下町を象徴するように、矩折(かねおれ)形に折れ曲がっています。屋敷はこの南北方向道路の両側にありますが、西の山裾側が東の川側のものに比べて数倍大きくなっています。最も大きな屋敷は、間口60m、奥行き70m、面積4,200 ㎡(約1,270坪)あります。各屋敷は、塀の基礎と考えられる石垣で囲まれており、この上に土塀が築かれていたと考えられます。また、道路に対して門が開かれており、その間口は10尺(3m)です。この門の建物の跡も明らかで、西の山裾の屋敷では、礎石4個を用いた四本柱の薬医門(やくいもん)形式と考えられるのに対し、東の川側の屋敷では掘立柱(ほったてばしら)2本からなる棟門(むなかど)形式であり、格式の差が見られます。屋敷の中の建物については、削平されている所が多く、はっきりしない点もありますが、基本的には、正面、南寄りに、接客や主人の住まいとなる建物や庭園が設けられ、奥には、蔵や台所、工房、家人の住まいなどが設けられていたことが知られています。
39.復原町並 武家屋敷
武家屋敷と考えられている多くの屋敷の中で、最も遺構の保存が良く、当時の全体の様子がわかるのがこの屋敷です。これまでの研究成果に基づいて屋敷全体を立体的に再現しています。約30m、100尺四方の基準的規模を持つこの屋敷は、正面となる西に加えて、東、北の三方が道路に面しています。南半区の東寄りに中心となる建物である主殿を、その北に蔵を、北の塀際に家人の住まいを兼ねた納屋と考えられる建物を設けています。また、主殿の前庭を区切るように仕切りの塀を設け、ここには塀(へい)中門(ちゅうもん)があります。復原に際しては、遺構の保存を考え、約60cm盛り土をした関係上、現状では門に石段がありますが、本来は道路と同じ高さの屋敷で、門に石段もありませんでした。ただし、南隣の屋敷で検出された形式にならって、2本の掘立柱(ほったてばしら)からなる棟門(むなかど)をつくっています。塀や門の高さは、屋敷内を基準としている関係上、道路から見ると少し高くなっています。蔵は周辺からの壁土の出土量が少ないため板倉と推定しました。中には低い床がありますが、他は石敷(いしじき)となっています。納屋の中には野菜などの洗い場と考えられる施設も見られます。井戸(いど)屋形(やかた)は、向い側の山寄りの屋敷から出土した滑車を参考にして復原しました。便所は、出土した「金隠し(きんかくし)」に基づいて、絵巻物などの資料を参考にして復原しています。
40.復原町並 武家屋敷主殿(しゅでん)
屋敷の中心である「主殿」に当たる建物で、東西6間(約11.3m)、南北4間(約7.5m) の規模で、東南に小さな離れ座敷が付属しています。建物は、中央の柱通りで大きく二つに分けられ、南半分が畳を敷き詰めた表向きの部屋で、接客や主人の日常の生活などに用いられます。北半分は低い板の間や土間で、納戸(なんど)や台所として用いられます。表の部屋の中では、中央の10畳の広さの部屋が最も格式の高い部屋です。台所は井戸や流しの設けられた土間(どま)と大きな囲炉裏(いろり)の設けられた低い床を持つ部分が見られます。また、離れ座敷の東は、現在は塀が隣接していますが、これは県道との関係によるもので、本来、塀との間は約3m離れており、ここには庭園が検出されています。こうしたことから、この小さな離れ座敷は、茶座敷(ちゃざしき)などとして用いられたものと考えられます。このように整った建物では、部屋の外廻りの建具(たてぐ)形式としては、まだ雨戸はなくて、板戸(いたど)2本と障子1本がセットとなる形式が一般的でした。また、檜(ひのき)が主として用いられ、柱などは台鉋(だいがんな)、板は鎗鉋(やりがんな)で表面は加工したと考えられています。建物内には、出土遺物から考えられる生活の様子を、再現展示しています。表の部屋には、主人と客が将棋を指している場面を設定しました。また、復原はしていませんが、奥行きの浅い押板(おしいた)と呼ばれた床(とこ)が、設けられていたことも考えられます。台所には、様々な生活道具が置かれています。ここでは、家人が魚を鉄の箸で押さえてさばいています。