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11 一乗谷城(いちじょうだにじょう)

一乗谷から東に見える山は、標高475mの一乗城山です。山頂には、有事に備えての山城、一乗谷城が築かれていました。この城を中心にして、南に「三峰(みつみね)城」、西に「槙山(まきやま)城」、北に「成願寺(じょうがんじ)城」などの支城(しじょう)が配置され、一乗谷の守りを固めていました。三方を山で囲まれ、北には足羽川を持つ地形である一乗谷は、防御にとても適しています。また、地勢的にも越前国の中央に位置しています。朝倉氏はこのような条件を踏まえて一乗谷を拠点に選び、足羽川流域にその勢力を拡大したと考えられています。江戸時代に当時の一乗谷を描いた「一乗谷古絵図」には、山城については、「山上御殿群(さんじょうごてんぐん)」として、千畳敷(せんじょうじき)、観音屋敷(かんのんやしき)、月見櫓(つきみやぐら)などの方形区画群が描かれています。一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸と示された連続曲輪(くるわ)群も描かれています。現在でも、このような曲輪を多く目にすることができます。千畳敷は、山上御殿群の一画で、山の斜面を削って平坦な地を造っています。ここでは、列状に並んだ大きな礎石(そせき)を見ることができます。千畳敷付近の宿直跡(とのいあと)からは、周辺の山城のほかに福井平野や三国港、日本海を見渡せることも可能です。千畳敷の近くには、赤淵神社跡(あかぶちじんじゃあと)があり、一乗谷の鎮守(ちんじゅ)として存在していたようです。南には月見櫓跡、北には櫓跡があり、さらに外側には、等高線に対して直角方向に斜面を掘って造る畝状(うねじょう)竪堀(たてぼり)が連続して設けてあります。畝状竪堀は、山城全体で140条も造られており、大変強固な防御施設であったことがうかがえます。しかしながら、実際には一度も使用されることはなかったようです。通常の住まいとは別に、有事の際に築かれた山城ですが、朝倉氏が最後を迎えた、天正元年(1573)の織田信長の越前侵攻の際にも、この堅牢(けんろう)な山城を実際に使用することはなかったのです。