福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館

資料館の紹介

展示案内

 長年の発掘調査により一乗谷から出土した陶磁器類、石製品、木製品、金属製品などの出土遺物や地形模型、朝倉義景館復元模型などを中心に展示しています。「朝倉氏の歩み」、「戦い」、「宗教と信仰」、「茶の湯と遊芸」、「住居」、「暖房と明かり」、「日常の道具や食膳具」、「調理と貯蔵具」などのテーマに分けて実物を多数展示し、当時の人々の暮らしぶりをよくうかがうことができます。

常設展示

特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡

Photo

 朝倉氏遺跡は戦国時代に越前国守であった朝倉氏5代の本拠地であり、文明3年(1471)から天正元年(1573)までの約100年間越前の首府として栄えた所です。遺跡は福井市街の東南約10kmの一乗谷にあります。山城・居館・武家屋敷・町屋・寺院など遺構が一体となって良好に保存されており、我が国中世史上他に類をみない重要な遺跡で、昭和46年(1971)7月29日に国の特別史跡に指定されました。
 遺跡の発掘調査、環境整備は昭和42年(1967)に旧足羽町の手で始められ、その後福井県が事業を引き継いで行っています。発掘した面積は特別史跡指定地278haのわずかな部分にすぎませんが、これまで当主の館や家臣の屋敷・町屋・寺院などの実態を明らかにしました。また、規則的に縦横に配した幅広い街路に面して、大小の屋敷を整然と配置した城下町の存在を実証しました。なお完形品は少ないですが、大量に出土する陶磁器類や木製品・金属製品・石製品の遺物からは当時の生活の様子が具体的にしのばれます。
 朝倉氏遺跡の一般に対する学術的・教育的、あるいは観光的な価値は年々増大してきていますが、現在も史跡公園完成を目指して発掘調査、環境整備事業が鋭意続けられています。

朝倉氏の歩み

Photo

 朝倉氏はもと但馬(たじま)国(兵庫県)の出身で南北朝の争乱の時、広景は北朝方の斯波高経にしたがって新田義貞などの南朝方を討ち破った功により越前に所領を得、以後代々越前守護斯波氏に仕えました。広景から7代目の孝景の時応仁の乱が起こり、朝倉氏はこの混乱の中で主家斯波(しば)氏を追放し越前の支配者に台頭しました。居城を一乗谷に構えたのもこの頃であったといわれています。
 孝景が没した後は子の氏景が跡を継ぎ、甲斐氏との抗争に打ち勝って実質的な越前国の支配権を確立しました。氏景没後3代城主となった貞景は敦賀の同族景豊(かげとよ)の反乱、加賀一向一揆の侵入と朝倉氏最大の危機に遭遇しますが無事に乗りきり、次の4代孝景にいたって朝倉氏の最盛期を迎えるところとなります。孝景は若狭、近江、加賀などの隣国へ出兵しましたが、これは朝倉氏の越前支配が安定していたことを示します。
 孝景が没し朝倉氏最後の城主となる義景が跡を継ぎますが、義景の生涯の大半は加賀一向一揆との抗争に明け暮れ、一揆との和睦から死にいたる数年間は織田信長との対決でした。信長と数回鉾を交えますが、浅井長政救援のため近江に出陣した朝倉方は壊滅的な打撃をうけました。義景は一乗谷城を捨て大野六坊賢松寺にのがれますが、一族景鏡(かげあきら)に包囲されて自刃し、ここに朝倉氏は滅亡したのです。

朝倉氏の戦い

Photo

 朝倉氏100年の歴史は戦いに明けくれた日々だったといっても過言ではありません。朝倉氏の合戦はその内容によって(1)興隆期における斯波・甲斐氏との戦い (2)一向一揆との絶えまない戦い (3)安定期をむかえて国内における朝倉景豊・堀江氏の謀叛(むほん)の鎮圧と (4)国外への出兵 (5)朝倉義景の代における織田信長との戦いなどに大きく分けることができます。永正3年(1506)の一向一揆との合戦は、初期の一向衆との大規模な合戦で、朝倉氏はこれを打破したことによって越前領国支配を確立したといえます。織田信長軍との手筒・金ケ崎(てづつ・かながさき)合戦では、朝倉軍の総力が3万人であったことなどがわかっています。

信仰と宗教

Photo

 一乗谷には数多くの寺院があったことが知られています。朝倉氏はその菩提寺である心月寺や英林寺が曹洞宗であることから、禅宗に帰依(きえ)していたことが分かります。また、朝倉一族やその家臣は臨済・浄土・天台・日蓮法華など各宗派に帰依し、檀那(だんな)になることによって戦国の世に心の安らぎをえようとしたのです。当時、京で衰退の一途をたどっていた臨済宗五山派の宏智(わんし)派が興隆をみたのも、真盛上人(しんせいしょうにん)による天台宗真盛派の越前における布教活動が活発であったのも、朝倉氏の力に負うところが多いようです。また、一乗谷やその周辺からは阿弥陀・地蔵・観音・五輪塔など約3,000体の石仏・石塔が確認されています。その他、地鎮具や神像など多くの出土遺物からも、一乗谷の当時の人々の信仰内容が彷彿(ほうふつ)と感じられるでしょう。

茶の湯と遊芸

Photo

 戦乱で荒廃した京から足利義昭をはじめとして、公家の右大臣三条公頼・大納言飛鳥井雅綱・一条兼良、高僧の大覚寺義俊・月舟、当代随一の漢学者で儒学者でもあった清原宣賢、医書「八十一難経」を版木で出版した谷野一栢、連歌師宗祇・宗長など多くの文化人が朝倉氏の庇護をもとめて下向してきました。朝倉文化とよばれるものはこれらの人々によって開花し、朝倉の武将たちによって深く育まれたものといえます。座敷飾りの茶器・花器・香炉なども谷のいたる所から出土しており、茶の湯・生花・聞香などの遊芸が当時の一乗谷でいかに広汎でかつ高い水準に達していたかを知ることができます。さらに硯や水滴などの文房具の出土とともに、和歌や漢詩を書いた木片や「庭訓往来」の断簡もみられ、日常の余暇を楽しむ将棋の駒をはじめ、双六の賽子(さいころ)や駒石、小舟、人形などの遊戯具の出土もみられ、当時の人々の遊芸に対する関心を如実にうかがい知ることができます。

住居(すまい)

Photo

 人々の生活していた住居は階層によって規模などに違いがありました。城主とその一族や重臣などの上級武士は屋敷のまわりを土塁(どるい)や塀などで囲み、それぞれの目的に応じた多くの建物を建て庭園を築いた大きく立派な屋敷を構えていました。これに対して下級武士などの一般の人々は宅地の間口一杯に多くの機能を備えた単一の建物を建てています。このように規模には大きな開きがみられますが、各家は独自の井戸を備えていて江戸や京都の町のような共同井戸はみられません。
 これに対して個々の建物の基本構造には共通点が多いようです。瓦を用いずに桧(ひのき)や杉などの樹皮、こけら板や長板などの割板、茅(かや)のような植物製の材料を用いて屋根を葺き、棟(むね)には木や石で造った鬼板や棟石などを置いていました。柱はすべて角柱でほとんどの建物が礎石を用いていますが、掘立柱とするものもあります。周囲は板戸などの建具や板、土の壁で囲み、床は板敷が大半で一部には畳などの敷物も使用されていたとみられます。また土間の部分もみられます。このように我々が江戸時代の民家などでみる様子に比較的近かったようです。

暖房と明り

Photo

 越前では行火(あんか)のことを「バンドコ」と呼びます。バンドコは福井市笏谷(しゃくだに)から切り出される凝灰岩をくり抜いて作り、前面に窓を切り上に蓋をのせる構造になっています。中に炭火を入れ、さらにこたつやぐらなどに入れて使用したのでしょう。また笏谷石製や瓦質の丸い火鉢も出土しますが、バンドコに比べるとその数は少ないようです。なお、瓦質の火鉢は畿内で作られて運ばれてきたのでしょう。笏谷石製の炉壇石(ろだんいし)も出土しており、室内に炉が切られていたことがわかりますが、土間に据えられている例もあります。
 夜は灯明皿で明りをとりました。直径10㎝前後の小さい土師質皿にエゴマを搾った油を入れ縁の灯心に火をつける簡単なものです。大量に出土する灯明皿には煤が付着しているものが多いようです。灯明皿の明りは、今日からすれば非常に暗いものです。明るくしたいときは中の灯心の数を増やす方法もあります。朝倉館跡からは瀬戸製の燭台の一部が出土していますが、この頃ろうそくは貴重だったので、当主の館といえども特別な場合にだけ使用されたのでしょう。

日常の道具と化粧用具

Photo

 これまでの発掘調査で、一乗谷には様々な職業の人が住んでいたことが明らかになっていますが、鎌、鉈、鍬、刀子、砥石などは、朝倉館や武家屋敷、寺跡からも出土しており、特に職業に結びつけなくても日常生活を営む上で今日以上に必要な道具類です。日常作業の例としては、曲物の修理や製作、漆塗り、板金を切ったり、大甕のひびを漆で塗った布でとめたりする作業等が出土品から知られます。なお、砥石は荒砥から仕上砥石まで様々な種類が出土していますが、一乗谷内の浄教寺に産する砥石が大半をしめています。
 化粧、装身具では黄楊(つげ)の櫛が多数出土しています。銅鏡や毛抜、それに真鍮(しんちゅう)や白磁等の紅皿も多く、これらは鋏や紅筆などと共に手箱に納められていたのでしょう。越前焼に「お歯黒壺」とよばれる鳶口(とびぐち)の小壺があり、中には酸化鉄が付着している例も多くその大部分が名前のとおり鉄漿(かね)を入れておいたもので、当時は鉄漿付けの風習が広くゆきわたっていたことがわかります。

食膳具

Photo

 人々が食事の際に使用した食膳具では、青磁鉢・皿、白磁皿、染付碗・皿などが非常に多いです。これらは中国明代の民窯で焼かれたもので、武家屋敷や寺院跡だけでなく、庶民の家々が建ち並んでいた所からも多数出土します。当時中国から大量に輸入され、一般にも広くゆきわたっていたことが知られます。これら中国製品をまねて美濃や瀬戸で焼かれた灰釉や鉄釉の碗・皿類は天目茶碗をのぞけば、中国製品に比するとその数は意外に少ないようです。最も大量に出土する土師質皿のうち、直径が14cmをこえる大きい皿は酒杯や盛皿に用いられました。
 また漆製の椀や皿も多く使用されたと推定されますが、その性質上常に水で密閉された所でないと遺存しないため、遺物として出土する数はさほど多くありません。漆塗製品の中には、黒漆地に朱漆で扇や草花文を描いた椀や、当時の光沢を失っていない朱漆の優れた椀もあります。その他、木製の箸や折敷(おしき)も溝や井戸など下層の低湿地から出土しています。

調理と貯蔵具

Photo

 飲食用の器が、地元製品よりも外からもたらされた品々が多く用いられたのに対し、調理具やそれに関連した貯蔵用の壺や甕は、地元越前で生産されたものが大半をしめています。包丁、まな板(折敷の転用)、擂鉢、こね鉢、卸皿、鉄鍋、石製鍋、土鍋、五徳が出土していますが、中でも擂鉢の出土量が非常に多く、よく使用されていて底部近くの擂目がすっかり摩耗してなくなっている例も多く見られます。なお、当時の人々が食料にしたものとしては、米の他、サザエ、カキ、カラス貝、タイ、シカ、イノシシ、カモ、ウリ、モモ、ウメ、クルミなどが出土しています。
 貯蔵用具としては越前焼の大小様々の壺や甕が多量に出土しており、大きい物では高さ、口径共に90cm近い甕もあります。穀物や油、酒など様々な品々を貯蔵していたのでしょうが、用途がはっきりしているのは、井戸の近くに据えてある水甕だけです。

中世の経済活動と朝倉氏遺跡

Photo

 朝倉氏が活躍した時代は政治的には極めて不安定な時期でしたが、経済的な分野では手工業を中心とした商品生産が活発に行われるようになりました。その背景には農業生産力の向上・貨幣流通の浸透・座や問丸の発達がありました。また人口も増大し、各地に城下町や港町或いは門前町が次々と興ってきました。一乗谷朝倉氏遺跡でもこの時期の繁栄の一端を物語る資料が見つかっています。

生産の分野:鍛冶・鋳物師その他にも道具・工具の生産があげられます。ここでは鉄砲鍛冶の工房跡と各種金具や地金が見つかり、その他に鉄器や銅器の生産を偲ばせる鉱滓・ふいご・砥石等が出土しています。またカワラケ(灯明皿)生産の跡と考えられる場所からは、多量の未使用カワラケと粘土塊・窯壁の一部と思われる焼土塊が見つかっています。さらに数珠玉を製作した工房も近年の調査によって確認されました。その他に曲げ物や漆器の生産を推測させる遺物も見られます。

流通・交易の分野:当遺跡出土品の中で圧倒的な量で出土した陶磁器類によって、その様子を伺うことができます。国内産の陶器としては瀬戸・美濃焼や信楽焼・越前焼があります。越前焼は丹生郡越前町に窯場があり、一乗谷で最も多く利用されたやきものといえます。輸入陶磁器としては中国製陶磁器類が多いですが、朝鮮製や稀に東南アジア産のものも出土しています。これらのやきものは日常生活や儀式の場に用いられ、あるいは趣味嗜好品として珍重されました。

その他:商品の荷送りや運搬に使用された付札類、商品売買における銅銭などがあります。

企画展示

企画展の詳細はイベント情報をご覧ください



福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館

〒910-2152 福井県福井市安波賀町4-10
Tel :0776-41-2301
Fax :0776-41-2494
E-mail:asakura@pref.fukui.lg.jp

※当サイトに掲載されている情報(文章・写真・図表・イラスト等)を著作権者に無断で転載・複製等することを一切禁じます。

Copyright© Ichijodani Asakura Family Site Museum All Rights Reserved.