遺跡のご紹介
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一乗谷朝倉氏遺跡の概要
当遺跡は、戦国時代の城下町全体が遺跡となって残された、全国でもまれな大規模遺跡です。昭和46年に278haが国の特別史跡に指定され、以来、50年以上にわたり、発掘調査と整備が続けられてきました。
また、平成3年には遺跡内の4つの庭園が国の特別名勝となり、さらに平成19年には、遺跡からの出土品2,343点が国の重要文化財に指定されました。朝倉当主の館跡をはじめ、武家屋敷や道路などの町並を復原した地区、上・下城戸跡、石仏群の残る寺院跡、標高473mの山上に築かれた一乗谷城跡など、谷全体に多くの見どころが点在しています。
城戸と一乗谷城
下城戸口
城下町は上・下城戸によって仕切られています。下城戸山裾には、巨石を積んだ桝形の城戸口がみられます。一乗谷城は東方山上にあり、竪堀に防御されて、千畳敷、観音屋敷、宿直(とのい)などの御殿群と、一ノ丸などの曲輪群があります。
寺院と町屋
西山光照寺石仏群
一乗谷には40数ヵ寺の寺院がありました。天台宗真盛派の西山光照寺や盛源寺には、現在も多くの石仏や石塔が残されていて往時をしのぶことができます。道福谷から八地谷にかけての山際には、多くの寺院が確認されています。サイゴー寺では、本堂跡が土塁で囲まれた敷地内にあり、その南隣の寺院では柿経(こけらきょう)や卒塔婆(そとば)、墓地などが検出されています。道路に面した町屋跡からは越前焼大甕をいくつも並べた紺屋をはじめ、数珠師、塗壁師、鋳物師(いもじ)・桧物師(ひものし)などの職人の家も確認され、一乗谷の賑わいがよみがえってきます。
豪壮華麗な庭園
一乗谷には、室町時代末期の庭園の様式をよく伝える多くの庭園があります。朝倉館跡庭園は完全に埋没していたもので、建物との関係がよく分かります。湯殿跡(ゆどのあと)庭園の林立した立石群には戦国武将の気迫が感じられます。諏訪館跡(すわやかたあと)庭園は最も規模の大きい豪壮華麗な庭園で、秋の紅葉も見事です。
4つの特別名勝・庭園群
朝倉館跡庭園(特別名勝)
特別名勝4庭園の中では、一番最後に発掘調査が行われました。この庭園は、当時完全に土の中に埋もれており、発掘調査により約450年ぶりに発見されたものです。池の底には、平らな石が美しく敷き詰められており、池の護岸は、出入りが多く、大小さまざまな庭石で構成されています。
戦国時代の荒々しい石組み
湯殿跡庭園(特別名勝)
湯殿跡(ゆどのあと)庭園は、朝倉館跡を見下ろす高台にあります。残念ながら、湯殿跡に関する古文書などの文献が全く残っていないので、いつ頃、誰が建て、誰が住み、当時はどのようなたたずまいだったのかは全くわかっていません。湯殿跡庭園は、戦国時代の気風を漂わせる、荒々しく勇壮な石組みが特徴です。4つある特別名勝朝倉氏庭園の中で、一番古いものではないかと考えられています。芸術家の故岡本太郎氏が当地を訪れた際、庭園に感動し、長時間、鑑賞していたそうです。
日本でも第一級の豪華さを誇る
諏訪館跡庭園(特別名勝)
諏訪館跡(すわやかたあと)庭園は、4つの庭園の中で最も大きく、上段と下段で構成されています。諏訪館は、5代義景が最愛の妻「小少将(こしょうしょう)」のためにつくったと伝えられています。湯殿跡庭園に比べて、低く丸みを帯びた石が多く、女性らしい雰囲気が感じられます。
後の足利幕府15代将軍義昭をもてなした
南陽寺跡庭園(特別名勝)
朝倉氏の子女が入る尼寺で、永禄11年(1568)3月、後の15代将軍足利義昭をもてなし、境内の糸桜を眺めながら、歌会を催したと伝えられています。庭園の構成に朝倉館跡庭園や諏訪館跡庭園との類似点が見られ、同時期につくられたと考えられます。
計画的な城下町
復原町並
長年の発掘調査の結果、我が国で初めて戦国時代の城下町の具体例が明らかにされました。一乗谷を縦横に走る道路に沿って、武家屋敷、寺院、商人や職人達の住む町屋などが所狭しと並んでいる様子は壮観です。道は、防御のための矩折(かねおれ)、T字路、行止りなどの工夫がみられます。城下町の建設にあたっては、30m=100尺を基準にしていたこともわかりました。
復原された武家屋敷
東西30m、南北30mの敷地をもつ中規模の武家屋敷を復原しました。発掘では、土塀の二ヵ所に門を開き、中央に東西11.3m、南北7.5mの主屋が、東南隅に一間半四方の茶室、庭園などが発見されました。日常使用される蔵や井戸、便所なども復原されています。この復原武家屋敷は、発掘遺構面に60cm土盛りし、当時の材料、工具、技術等を十分に検討して建てられたものです。