一乗谷朝倉氏遺跡博物館

拡大拡大する

縮小縮小する

  • 1 ようこそ、戦国城下町一乗谷へ
    博物館が建つこの場所は、かつて日本海と結ぶ川湊があり、隣国美濃への街道がとおる、人、モノ、情報が行きかう一乗谷と外の世界を結ぶ入り口でした。今ふたたびその場所に、歴史好きの人びとや子供たち、観光客、研究者など、国内外からの多様な訪問者との交流拠点を目指して、この博物館が開館しました。
    特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡は、半世紀にわたり調査研究が続けられ、我が国の戦国時代研究をリードしてきました。まるで500年前のタイムカプセルのような遺跡から私たちが手にいれたたくさんの宝物、それがこの展示です。
    大人から子供まで、何度来ても新鮮な驚きと発見、感動があるよう、そして体験や学習に親しんでいただけるよう企画しました。より深く歴史像を理解できる展示をどうぞ、ご観覧ください。
  • 2 一乗谷朝倉氏遺跡とは
    一乗谷朝倉氏遺跡は、戦国大名朝倉氏が5代約100年にわたって越前国を治める拠点とした城下町跡です。遺跡には山城や城戸、武家屋敷、町屋、寺院などの遺構が一体となって残っており、約278haという広大な範囲が特別史跡に指定されています。 また、遺跡内にある諏訪館跡、湯殿跡、朝倉館跡、南陽寺跡の4つの庭園跡が特別名勝に指定され、さらに、50年以上にわたる発掘調査によって見つかった約170万点の出土品のうち、2,343点が重要文化財に指定されています。このように、一乗谷朝倉氏遺跡は戦国時代の生活や文化の様相、城下町の構造などを知るうえで欠かすことのできない、我が国を代表する遺跡です。
    今、皆さんがいるガイダンスエリアでは、遺跡の見どころや朝倉氏の歴史などをわかりやすく紹介しています。2階の展示室や遺跡を散策する前に、ぜひご覧ください。
  • 3 赤色立体地図とは
    大小3つのモニターでは、一乗谷朝倉氏遺跡の全域を赤色立体地図で見ることができます。 赤色立体地図は、航空レーザ測量によって得られた地形データを、人が立体感を感じやすいとされる赤色で可視化したものです。 急斜面ほど色濃く、平坦部ほど明るい色で表現されています。 測量する際は、航空機から地上にレーザ光を照射し、草木や建物といった障害物の隙間を通って地面に当たったものをデータとして抽出しているため、樹木に覆われた山地の地形や遺構もはっきりと確認することができます。 特に一乗谷城では、等高線に対して直角方向に斜面を掘って造られた無数の畝状竪堀や、平坦地である曲輪群が残っていることが明瞭にわかります。また、戦国時代より千年ほど古い古墳群も、遺跡西側の山の尾根上に確認することができます。
    航空写真と見比べながら、一乗谷の地形や戦国時代の面影を残す歴史スポットを探してみてください。
  • 4 探究ラボ
    探究ラボでは、イラストやめくり絵本、さわれる展示物のあるハンズオン展示などを用いて、博物館で働く学芸員や文化財調査員のお仕事を紹介しています。
    まず、壁面のグラフィックをご覧ください。戦国大名朝倉氏の歴史や城下町での人々の暮らしなどを解明するため、また、貴重な遺跡を後世に守り伝えるために、博物館では様々な分野の専門職員が日々、調査研究を行っています。 発掘調査や遺跡整備は勿論、様々な装置を用いて出土品の保存処理や科学的な分析も行っています。
    壁面グラフィックの手前にあるデスクは、博物館のお仕事を模擬体験できるコーナーです。 出土品を型取りした、本物そっくりなやきものパズルを使って遺物の接合を体験したり、考古学の調査で実際に使われているマコ、キャリパーを使って遺物の実測を体験することができます。 また、顕微鏡では本物の戦国時代の土を使って、寄生虫や花粉、種実を観察することができます。
  • 5 石敷遺構と戦国商人の落とし物
    石敷遺構は長さ38m、幅5.6mの大規模施設です。川の跡を横断するように土が盛られ、その上に大量の川原石が敷き詰められています。 注目されるのは、両端付近と中央部に溝があること、南側が一段低い平坦面となっていることです。
    ここを船着場とみれば、溝は水位を調節するため、低い平坦面は荷を積み下ろしする時の足場と考えることができます。 一方、この平坦面の縁の石積みがそれほど強固でないことや、舟をつなぎ止める杭などの設備が見つかっていないことなどから、船着場には懐疑的な意見もあります。
    残念ながら、石敷遺構やその周辺からは、戦国時代にここで何が行われていたのかを示す決定的な証拠は見つかっていません。しかし、手がかりとなる遺物が中央部の溝から出土しています。 それは、紐を通して束ねられた銅銭です。約100枚の束が2本以上確認でき、現在のお金で2~3万円分はあるようです。品物の売買のため大量の銭を運んできた商人が落としていったものかもしれません。
  • 6 遺構の保存と公開
    遺構展示室では、出土した遺構そのものを公開する「露出展示」を行っています。遺構に屋根をかけ、風雨から守り展示をするこの方法は、一見、遺構にとって良い環境に思えます。 しかし、雨による洗い流しがなくなることや、湿気が逃げにくくなることで、塩の析出による遺構の破壊や、カビや苔類の発生もしばしば問題となります。このような遺構の破壊や汚損をまとめて「劣化」と言います。
    こうした遺構の劣化は「熱」や「水分」が引き金となって起こるため、遺構展示室では劣化の要因となる温湿度や、土に含まれる水分量、地下水の成分などを調査し、モニタリングを続けています。 また、最適な遺構の展示手法を開発するため、遺構展示室では新たな実験も行っています。こうした実験データをもとに、遺構の保存と展示を両立させる最善の方法を日々検討しています。
  • 7 戦国城下町一乗谷
    このキーヴィジュアルは、一乗谷四代朝倉孝景と、五代義景がおさめた最盛期の一乗谷の様子を再現した復元図です。発掘調査で確認された建物跡、屋敷区画を正確に描き加え、未調査地は、地籍図や古地図を参考に再現しています。
    一乗谷の城下町成立以前の越前国内は、平安時代まで国府が置かれた府中や、先行して発展した三国湊や敦賀湊の港町、豊原寺や平泉寺のような宗教拠点が存在していました。一乗谷はこうした既存拠点とは別に、街道や水運を利用し越前国の中心として朝倉氏が整備した戦国都市です。
    一乗谷は約2キロメートルの長さの谷を、上城戸・下城戸の土塁によって仕切り、その谷の中央を流れる一乗谷川の両岸に都市が形成されています。一乗谷川右岸は、背後に山城を備える当主の館や一族の館を中心に、大規模な武家屋敷や寺院で構成され、左岸は幹線道路沿いに大小各規模の武家屋敷、寺院、町屋などで城下町が構成されています。城戸の内側に住んでいたのは、原則として当主に集住を命じられた者であり、キーヴィジュアルで描いた最盛期には、復原されうる建物数などから、人口は1万人を下らないと考えられています。
  • 8 流通と経済
    一乗谷には国内外から多種多様な商品が流通していました。当時日本海を往来していたのは北国船とよばれる船ですが、一乗谷からは北国船の模型が出土しています。 これらの船で運ばれた物資は、三国湊を経由し、足羽川の水運を利用して一乗谷へ運搬されました。
    海外からの流通品で最多を占めるのは、陶磁器です。大部分は中国、朝鮮半島製で、わずかにタイ製陶器が見られます。 中国製では龍泉窯の青磁、景徳鎮窯の白磁や染付などがあります。 朝鮮半島製では、蕎麦茶碗や白磁、粉青沙器(磁器)のほか、わずかに高麗青磁があります。 国内製陶器としては、鎌倉時代から生産されていた越前焼が最も量が多いですが、越前以外では、瀬戸・美濃焼の鉄釉碗や灰釉皿が多く見られるほか、信楽焼、備前焼、丹波焼、珠洲焼の製品がわずかに確認できます。 越前焼は越前国内にとどまらず、北は北海道南部、南は山陰地方の遺跡で出土しており、日本海側で広く流通していました。
  • 9 一乗谷のインフラ整備
    戦国時代、日本各地の大名も国内の治水事業を行ったことが知られていますが、都市として設計された一乗谷では、インフラ整備も優れた様子が確認できます。 谷の中央を流れる一乗谷川には、両岸に石積み護岸が発掘調査で確認されていますが、この川に流れ込む小支流にも石積み護岸が確認され、整備された水路であることが判明しました。
    また、武家屋敷や町屋には多くの井戸や石積施設が確認できます。町屋における井戸の数は同時代の都市と比較しても群を抜いて多く、笏谷石製井戸枠のみならず内部も石積で頑丈なつくりとなっています。 方形の石積施設は、1980年に金隠と呼ばれるトイレの部材が発見されたことにより、日本で初めて考古学的にトイレ遺構であることが確認されました。井戸やトイレの整備が都市の最下層である町屋個々にまで及んでいることからは、一乗谷の優れたインフラ整備による都市的な生活が垣間見えます。
  • 10 城下町のくらし
    一乗谷には、朝倉氏一族・家臣・商人・職人・僧侶など、様々な身分や職業の人々が暮らしていました。住まいの規模や構成は身分によって異なりますが、建物はすべて木造で、ほとんどは地面に据えた礎石の上に柱を立てる構造でした。 礎石の中には、柱の中心を定める十字の刻みや、柱の痕跡をもつものが見られます。屋根にはスギの板やカヤなど植物質の材料が葺かれました。当主一族の館や山城の建物の屋根に限っては、石製の鬼瓦が置かれたようです。 遺跡からは、建物の様々な部材や大工道具が出土しています。
    日常生活に関する遺物では、下駄、化粧道具、櫛、髪飾りなど装いに関するもの、包丁、鉄鍋、漆器や陶磁器の碗・皿、箸など調理・食事に関するもの、灯明皿や火鉢、「バンドコ」と呼ばれる石製の行火など、 照明や暖房に関するものが出土しており、絵画史料と合わせて当時の生活風景を具体的に描くことができます。
  • 11 人々の祈り
    城下町には多くの子供が暮らし、羽子板や独楽で遊んでいました。これらの遊びには、子供の健康を願う魔除けの意味があります。人や舟をかたどった板は、穢れを移して厄災を祓うまじないに使われました。
    城下町の発展とともに、一乗谷には多数の神社やお寺が建てられました。寺社は学校・病院・宿泊施設・集会場などの様々な都市的機能をもち、住民にとって身近な存在でした。寺院跡の発掘調査では、葬送や供養の様子をうかがわせる遺物が多数出土しています。
    大勢の人々が暮らす城下町では、住民が亡くなると火葬し、石塔や卒塔婆を立てるなどして供養しました。現在でも一乗谷の各所には、多くの石塔・石仏が残されています。また、墓地跡では、お経が書写された薄い木の板が、重ねて束にされて埋められていました。
    その他、一乗谷では、神社のご神体と考えられる大型の鏡や、奉納されたと考えられる小型の狛犬が出土しています。
  • 12 城下町を支えた職人たち
    城下町跡から出土した道具類や工房跡からは、様々な職人たちが活動していたことがわかります。その技術は、武士をはじめ人々の豊かな暮らしや文化を支えました。活気ある戦国時代の一乗谷は、越前の経済拠点の一つでもあったのです。
    越前焼の大きな甕や加工途中の沢山の水晶玉、砥石などを展示しています。これらの出土品から、藍染をする紺掻や数珠をつくる念珠挽、刀を研ぐ研、その他様々な職人の活動を想像することができます。医師の存在が明らかになっていることも発掘調査の成果です。
    さらに城下町ジオラマにおいて、出土品の多くが発掘調査で発見された町屋に比定でき、活動の様子がイキイキと表現されていますので、ぜひ探してみてください。
    また、朝倉館跡周辺には、刀の飾となる刀装具や寺院での天蓋や瓔珞、仏像の首飾りなどで使われるようなガラス玉を制作していた職人もいたことが分かっています。これらの職人は大規模な屋敷内で活動しており、朝倉氏お抱えの特殊な職人だったと考えられます。
  • 13 城下町ジオラマ
    一乗谷の城下町は発掘調査された遺構の状況から、朝倉館と家臣団の武家屋敷群を核に発展し、都市計画に基づく町割りが行われていたことがわかりました。 ジオラマ再現した地区では、谷を南北に貫く幅約8mの幹線道路沿いに町屋が50軒以上並び、多種多様な職人や商人が住んでいたと考えられます。その山側には寺院や武家屋敷が建ち並んでおり、城下町に暮らした様々な人々の活動がうかがえます。
    ぜひ、ジオラマの地面の高さに目線を合わせて、大通りをのぞいてみましょう。老若男女、様々な地位や職業の人が行き交う、当時の賑やかな都市の様子を見ることができます。
    また、ジオラマの周りに展示している出土品の多くはジオラマ内で出土した地点で、どの様に利用していたかを示せるよう工夫していますので、細かな造形もご覧ください。
    そして、このジオラマのイメージを脳裏に浮かべながら、一乗谷の遺跡を散策してみましょう。
  • 14 越前朝倉氏のはじまり
    朝倉氏は現在の兵庫県にあたる但馬国朝倉庄出身の武士です。南北朝の動乱期に、朝倉広景が越前守護(統治者)の斯波高経に従って越前に入国し、越前朝倉氏の歩みが始まりました。 その後、初代孝景が越前国を治める戦国大名へと朝倉氏を飛躍させ、5代義景まで約100年にわたってこの地を治めることになります。
    朝倉広景の子、高景は、貞治5年(1366)に一乗谷を含む宇坂庄など越前国内7カ所の支配権を与えられました。それ以降、朝倉氏はこれを足掛かりに勢力を拡大していきます。長禄2年(1458)、越前守護の斯波義敏と守護代・甲斐氏との間で争いが起こります。やがて京都でも応仁の乱が勃発すると、越前支配をめぐる争いの中で、越前朝倉氏初代当主である朝倉孝景が頭角を現します。応仁2年(1468)、孝景は越前へ下向すると、国内の平定戦を勝ち抜き、越前国の支配権を握りました。
  • 15 朝倉氏の内政と外交
    戦国大名となった朝倉氏は領国維持のために、内政に取り組み、外交に乗り出します。内政では奉公人制(武士が家臣となって当主に仕える体制)が整えられ、国内で起こった事件や訴訟の調査・糾明を行い、当主の命により、奉行人が行政・裁判の実務にあたりました。
    朝倉氏の支配機構は、当主を頂点とし、当主一族である「同名衆」、当主と主従関係を結んだ「内衆」、朝倉氏の越前平定以前から越前の在地で支配層だった「国衆」によって構成されます。主君から所領の永続的な権利を保障される知行宛行状は、家臣にとって最も大切な文書であり、これによって朝倉氏との主従関係が保たれました。外交では、近隣諸国だけでなく、北は奥州から南は薩摩まで、列島各地の大名と交流をかわしました。
  • 16 朝倉氏の戦
    永正3年(1506)、一向一揆(いっこういっき)との激戦を制し国外からの侵攻がおさまると、朝倉氏の治世は安定期を迎えました。4代孝景の代からは、隣国の美濃や若狭で起こった内紛に軍事介入し、また足利将軍の要請を受け国外出兵も増えていきます。5代義景の代でも一向一揆や織田信長との戦いのため、加賀・近江へ出兵が続きました。
    そして元亀元年(1570)、織田信長と朝倉義景の対立が深まり、同年4月、信長は敦賀・金ヶ崎城を攻めました。朝倉氏は浅井氏や比叡山延暦寺、大坂本願寺などの諸勢力と連合して、対信長包囲網を張り、以後4年にわたる義景と信長の交戦が続きました。一連の対立は元亀年間(1570~1573)と重なることから、「元亀争乱」と呼ばれます。
    一乗谷からはこのような戦に使われていたと考えられる様々な武器・武具が出土しています。金属製の槍先や刀、刀装具をはじめとして漆塗の鎧(甲冑)の一部なども見つかっています。
  • 17 城下町の滅亡とその後
    天正元年(1573)8月、5代義景は刀根坂の戦いで信長に大敗しました。その後、一乗谷から大野(一乗谷の東部)へ退却し再起を図りますが、従兄弟の朝倉景鏡の裏切りにあい、義景は自ら命を絶ち、朝倉氏は滅亡するとともに、百年余り続いた城下町一乗谷の繁栄は終わりました。
    江戸時代になると朝倉館跡には義景の菩提を弔う松雲院(寺)が建てられました。また、城下町の入り口にあって、歴代当主が信仰した春日神社には、義景の霊を祀る瀧殿社が創建されました。滅亡の混乱を生き延びた人々は、別の土地へと移り住んでゆきました。北庄(現在の福井駅前)のような新たな都市がつくられていくなか、一乗谷は田畑が広がる農村へと姿を変えていきました。
    これにより奇跡的に良好な状態で城下町の跡が残されることになりました。朝倉氏と城下町繁栄の歴史は、人々の記憶とともに地名や昔話、古絵図となって今に伝えられています。
  • 18 朝倉館ガイダンス①
    朝倉館は朝倉氏当主の住まいであると同時に、越前国の本拠たる一乗谷城下町に設置された政治の中核施設でもありました。朝倉氏は都からの客人をもてなすため、文化の粋を集めた空間を朝倉館内に設えました。朝倉館跡の発掘調査では、館の全体像をうかがわせる多数の貴重な遺構を確認しました。これらの遺構からは、往時の朝倉館の空間を推定することができます。本展示では、朝倉氏のもてなしの空間を体験できる場として、一乗谷が最も繁栄した時期であり、足利義昭の御成を迎えた永禄11年(1568年)の朝倉義景の館を原寸大で再現しています。
    往時の朝倉館の四方には濠がめぐり、この濠で囲まれた館の面積は約25,000㎡あります。西を正面として北・西・南の三方に門がひらかれ、館の平地部には10数棟の建物が建ち並んでいました。東南側の高台には観音山を背景とする池庭がつくられていました。戦国大名の当主館にふさわしく、朝倉館には京都の管領邸などの権力をもった武家邸宅と同等の空間が設えられました。客人をもてなすハレの空間は南側に、当主義景の日々の生活を支える日常の空間は北側に配置されました。
  • 19 朝倉館ガイダンス②
    朝倉館は朝倉氏の滅亡とともに西暦1573年に焼失し、建物礎石などの遺構は地中に埋もれていきました。江戸時代には、朝倉氏を供養する菩提寺が朝倉館跡に建てられました。この菩提寺・松雲院は福井藩に保護され、後に義景の墓所がつくられました。松雲院の移転後も、その山門であった唐門と義景墓所はそのまま一乗谷に現存しています。
    昭和43年からは、全国初の試みとして戦国大名居館の全面発掘を開始しました。発掘調査の結果、建物跡や庭園跡などの遺構と出土品、文献史料とを重ね合わせることで、当主館の全体像がわかる、全国で唯一ともいえる調査成果を得ました。
    遺跡では、往時の姿をほぼそのままに伝える庭園跡など、当主館の実像を物語る遺構を間近に見ることができます。再現された館と遺跡現地を共に訪れていただき、室町時代の美を結集させた空間と栄枯盛衰の歴史を感じ取ってみてください。
  • 20 朝倉館原寸再現
    原寸再現展示室では、中庭を中心とした会所、小座敷などのちに室町幕府15代将軍となる足利義昭を迎えたおもてなしの空間を原寸大で再現しています。 再現にあたっては、発掘調査で出土した遺構などの情報を基に、『朝倉義景亭御成記』等の史料の他、同類型の現存建物、室町時代の伝世品等に基づき、現代の職人の手や最新の技術を駆使して再現を試みています。
    原寸再現展示室の中央にみえるのが花壇です。室町時代、足利将軍や公家は好んで邸宅に花壇をつくらせました。朝倉館の場合には中庭に花壇がつくられ、広縁や廊を歩きながら花を愛でることができました。また、側石には水に濡れると青く発色する笏谷石の切石が用いられ、花とともに中庭に彩を添えていました。花壇には越前国から京都の将軍へ贈答された記録があるスイセンのほか、ナデシコ、キキョウ、キクなど、室町時代に好まれた四季の草花を、越前和紙を用いて再現しています。
  • 21 十二間の室礼
    室町時代の書院造建築では襖や壁に水墨画が好んで描かれました。朝倉館にも「鶴ノ間」「猿猴ノ間」などの障壁画を配した部屋があったことが知られています。本展示では往時の空間を想像するため、朝倉氏のお抱え絵師であった曽我派が描いた京都大徳寺真珠庵の「四季花鳥図」を、京都市の嵯峨美術大学の学生達が復元模写し、朝倉館原寸再現の障壁画として新たに設えました。
    押板には、掛軸と香炉・燭台・花瓶からなる三具足、そして室町時代頃に大成した立て花の形式を取り入れ、調和のとれた往時の座敷飾りをよみがえらせました。掛軸は、足利義昭が朝倉館で元服した際の様子を伝える史料をもとに絵柄を検討しました。三具足は、滋賀県大津の聖衆来迎寺に伝わる同時代の三具足を復元対象とし、科学分析やCT撮影、3Dスキャンを駆使して製作技法を検討し再現を試みています。
  • 22 おもてなし
    一乗谷では都から訪れた貴族や有識者をもてなす宴が度々催され、高価な外国製の陶磁器などが飾られました。それらは「唐物」と呼ばれ、戦国大名の富と権力を象徴する調度品でした。
    朝倉館や武家屋敷の発掘では、餅や菓子などを盛るのに適した唐物の大皿や様々な酒器などが見つかっています。また、朝倉館の庭園近くの井戸からは、日本から遠く離れたベネチア産と考えられるゴブレット(脚付き酒杯)の一部が見つかっており、その文化力の高さがうかがえます。朝倉氏はこれらの調度品で、飾り方の作法に従いおもてなしの場を整えました。
    室町幕府最後の将軍となる足利義昭の御成の際には、十七献にも及ぶ豪華な食事で義昭をもてなしました。朝倉館の南側に隣接する場所からは、サザエの殻がたくさん出土しており、当時の人々が好んで食べていたことがわかります。
  • 23 茶道、華道、香道
    一乗谷からは、様々な中国製の茶道具が見つかっています。これに似せて作られた日本製の茶道具も多く出土することから、広くお茶が楽しまれたことがわかっています。
    お茶以外では、香の種類をあてて楽しむ聞香の遊びが行われていました。聞香は手にとって顔に近づけて香りを楽しむもので、竹の節を模した小型の青磁香炉などが出土しています。香りの種類を数字で書いた木札や香を入れておく容器も見つかっています。
    また、一乗谷からは、豪華な唐物の花瓶や、一輪挿しの小さな掛花生、草木を寄せ植えして楽しんだと思われる意匠を凝らした器などが出土しています。これらの品々は、城下町の人々が身近な場所に花を飾り、花を育て愛でる生活を送っていたことを示しています。
  • 24 まなびや
    朝倉氏は都から一流の知識人を招き、和歌・蹴鞠・儒学・神道・馬術・放鷹術・芸能などの諸学・技能習得に励み、家臣たちにも学ばせていました。清原宣賢は当代最高の学者として知られ、何度も越前に下向し朝倉氏に諸学の講義を行いました。 一乗谷で亡くなった清原を弔うための一石五輪塔が見つかっています。4代当主孝景は、16歳の時に蹴鞠の名手である飛鳥井宗世(雅康)から蹴鞠の免許状である蹴鞠伝書を授けられました。
    遺跡からは、墨をするときに水を差すための道具である水滴や、墨をすって石がへこむほどに使い込んだ硯など、多数の文房具が出土しています。一乗谷で書写された様々な本からも学芸盛んな様子がうかがえます。
  • 25 一乗谷の文化興隆
    永禄4年(1561)、朝倉氏は越前海岸で「犬追物」という武芸儀式を執り行いました。犬追物とは馬に乗った状態で、自由に走り回る犬を殺傷能力のない弓矢でいる騎射武芸のひとつです。その様子は「犬追物図屏風」に描かれています。また、その次の年である永禄5年(1562)8月には、京の都でも途絶えてしまった雅な歌会である「曲水の宴」を一乗谷で再興しました。 この歌会には大覚寺義俊をはじめとした著名な文化人、知識人が参加しました。
    そのほか、朝倉氏は将軍が認めたものにしか使用できない「毛氈鞍覆」「白傘袋」を使用していました。また戦国武将の権威の象徴ともいえる日本刀のなかでも、「朝倉」の名前を冠した名刀「朝倉長光」を所有していたことなど、さまざまな形で朝倉氏の武力や政治力、文化力を伺うことが出来ます。